「タスク」の研究

脱線はやる気の近くで起こる

原稿を書こうとテキストエディタを立ち上げる。そのうち調べ物が出てきてWikipediaなんかにアクセスする。当然ブラウザを開くことになるので、そこでついついTwitterのタブを立ち上げる。そして失われていく5分、10分。

ええ、よくありますよね。日常的な風景です。

そういう失われ方をしていく時間を一日トータルすれば、きっと30分以上になるでしょう。嗚呼、なんたること。

でもふと考えます。たとえば書くべき原稿があるとことを意識した上で、それをまったく無視して本棚から漫画本を取り出し、それを30分読み漁るとしましょう。きっと、罪悪感はものすごく大きいのではないかと思います。だから、そういうことはあまりしないでしょう。

これを逆から眺めます。

テキストエディタを立ち上げ、そこからTwitterを覗いているとき、私は「作業をしている」気持ちの近くにいます。でも、漫画本を取り出して腰を据えて読み始めるのは、そうではありません。そこには明確な「自分は作業をしない」という決意の表明が伴うのです。

もし、Twitterのリプライが盛り上がって10分ほどが消費されたとしましょう。それは、机から立ち上がり、タバコ休憩している人たちに近づいていって10分ほどおしゃべりするのと、消費された時間で見れば同じ行為です。しかし、心理的にはそうではありません。後者は「やる気」の近くにはいないのです。

原稿を書いているときについついTwitterを見に行ってしまう行為は、「脱線」と呼ばれます。見事なネーミングです。本線を走っているときに、急に別の路線にズレ始めるのです。でも、まだ電車は走っています。ここがポイントです。

脱線しているとき、私の意識ではその行為は「作業の中」に含められています。それは脱線している最中にはほとんど罪悪感を覚えないことから確認できます。もし作業の外にあるなら、漫画版を読みふけるような罪悪感が生じるはずだからです。気分的には、脱線していてもそれは「作業中」なのです。

これはなかなか厄介な問題です。たとえばある会社の建物に入るとき、社員証を警備員に提示しなければならないとしましょう。厳重な警備に思えます。しかし、それは逆に言えば社員証さえ偽造できればいくらでも潜入できるということでもあります。パス、というのはそういう機能を持っています。

作業の脱線が心理的に作業に含められるとすれば、そこではいくらでも脱線的作業が発生する可能性があります。作業をしていないという罪悪感のブレーキが働かないので、いくらでも時間が浪費されていくのです。

しかしながら、生産性的観点からいえばそれらは実際には作業ではないわけで、「やる気を持って作業をしたけども、あまり成果は上がらなかった」ということになります。言うまでもありませんが、これは非常に疲れます。

だから、まあ、仕事術でよく言われる対策が出てきます。

  • 絶対に脱線的作業ができないようにしておく
  • 作業中はタイマーを使う
  • 行動の記録を取る

脱線的作業が行えないなら、脱線的作業を行いようもありません。ポメラが人気なのがわかりますね。

またタイマーをセットするのもそれなりに効果的です。当然、自分の行動を強制することまではできませんが、意志の力を発揮させる助力にはなってくれます。

最後の行動の記録は__たぶん一番面倒ですが__認知的な力強さがたしかにあります。行動の記録をきちんとつけると__家計簿がそうであるように__脱線が脱線とはっきり認知されはじめます。これまで「作業中」に含められていたものが分離されていくのです。つまり、罪悪感を覚えるようになります。

もちろん、それを覚えた後でその人の行動がどう変わるかはまではわかりません。家計簿を付けていても浪費を繰り返す人は山のようにいるわけですから。

こういうのはちょっと堅苦しいような、自分を締め付けるような感じを与えるかもしれません。でも、よくわからないまま30分を失ってしまうくらいなら、腰を据えて漫画を読む方が精神的満足度は高いような気がします。

仕事をきっちりこなして「今から30分は漫画を読むぞ」と宣言する。

まあ、毎回そんなにうまくいくとは限らないでしょうけれども。

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