本の紹介

【書評】フィルターバブル(イーライ・パリサー)

ファンタジー作品にはときどきお姫様が登場する。カゴの中に囚われたお姫様。世間のことはなにも知らず、貴族的価値観にしか触れたことのない華やかな女性。

彼女の中では「お城の生活」が世界の姿であり、市民がどのような生活をしているのかは想像も及ばない。

当然、そこに共感が発生する余地はない。彼女が権力を握ったら、さぞかし大変なことになるだろう。

翻って2016年。主権は国民へと渡った。では上記のような問題は発生しない? いやいや危ないぞ、とイーライ・パリサーは警鐘を鳴らしている。

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)
イーライ・パリサー
早川書房
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副題は「インターネットが隠していること」。でも、問題はインターネットにあるわけではない。

概要

本書は2012年に発売された『閉じこもるインターネット』を改題・文庫本化したものだ。一時期話題になったので、そちらで読んだ方も多いかもしれない。単行本が出版されてから4年ほど経ったわけだが、おそらく状況は悪化している。このまま進めば、宇宙船地球号という概念は消え去っていくだろう。

本書のテーマは「パーソナライズがもたらすフィルターバブルの弊害」である。けっこうゾッとする話でもある。

  • インターネットが私たちに見せる情報は偏っている
  • その偏りは「私向け」へと強まりつつある
  • その強まり方は弱りそうもない
  • あげくどう偏っているか私たちにはわからない

これが「フィルターバブル」である。

まず第一に、どのようなメディアであってもそこに情報の偏向は存在する。だからインターネットが見せる情報が偏っていること自体は大きな問題ではない。が、それが自動的にパーソナライズされだすとややこしいことになる。

たとえば私が本の書誌情報をコピペしようと書名でググったとする。すると、しばらくはその本の広告をあちらこちらのウェブサイトで見かけることになるだろう。これが、パーソナライズの一番弱い弊害だ。Googleの検索結果がパーソナライズされているのは皆もご存じのことだが、ニュースキュレーションアプリなどもそうした傾向を持っている。

そのようなパーソナライズは、私の行動に多様性を持たせるよりも、一極性を持たせるように働く。

考えてみよう。機械学習をするウェイターがいる。あなたは5回お店に入り、5回ホットコーヒーを注文した。6回目には、自動的にホットコーヒーが出てくるようになった。しかも、GPSを感知し、ある時刻にあなたがお店の周辺に近づいて来たらコーヒーを準備し始めるので、熱々のコーヒーをすぐに飲める。便利だ。

でも、そこには「今日はカフェオレを飲もうかな」という選択肢は無い。そして、6回もコーヒーを飲んだのだから、あなたはホットコーヒー好きだとさらにアルゴリズムが学習し、あなたにホットコーヒーを提供する可能性がさらに高まる。7回目、8回目とそれは繰り返されていく。あなたが「あなた」として固定されていくのだ。

この話のどこが怖いのか。コーヒー以外が飲めなくなるところ? もちろん、違う。あなたが喫茶店を「コーヒーを飲む場所」だと思い込み、他の選択肢のことをすっかり忘れてしまうことだ。当然、そのユニークな喫茶店にはメニューというものがない。なにせ、席に着いたらもうコーヒーが出てくるのだ。そうしてあなたは、カフェオレを飲む人やアイスコーヒーを飲む人への共感を忘れ、ときには嫌悪感すら持ってしまう。

この「コーヒー」を日常的な出来事に置き換えたとき、それが民主主義にどれだけ致命的なダメージを与えるかは想像に難くない。皆が自分の世界に閉じこもっていては、大きな問題は何も解決しないし、ごく少数の困っている人に助けの手がさしのべられることもなくなる。

しかしながら、インターネットからフィルターバブルが消えることは無いだろう。二つ理由がある。

一つには、サービスを提供する企業がパーソナライズに意欲的であるからだ。そうした機能を提供した方が、そうでない場合よりもより多く・より長くサービスを使ってもらえる。そして、それをお題目にして、企業は私たちの行動をログすることができる。そうして集められたデータが、いかに「価値」を持っているかは本書が実に丁寧に追いかけている。

もう一つの理由は、私自身がそれを望んでいるからだ。少なくとも、心の一部(もしかしたら大部分)ではそれを望んでいる。だって、席に座ったらコーヒーが出てくるのだ。一体そのどこが問題なのだ、というわけだ。

マクルーハンは「We shape our tools and thereafter our tools shape us」(人間は道具をつくり、そしてその後は道具が人間をつくる)と述べた。スタートは人間が道具を作ることだ。そして、その道具は我々の欲望に基づいている。だからパーソナライズは、簡単には消えないし、むしろ絶対に無くならないだろう。

カセットテープやMDで、自分の好きな曲セレクションを作った人は多いはずだ。今だったらプレイリストである。あれだってパーソナライズなのだ。そして、それは楽しかっただろう。現代では、技術がそれを少し先回りして、私たちの耳に入ってくる楽曲をパーソナライズしているだけだ。「ほら、これを聞きたいんでしょ」と。

でも、この二つには大きな違いがある。後者は受容するノイズが圧倒的に少ない。ほとんどすべてがシグナルとなる。そしてそこには変化の余地がない。ただただ固定化・強化が働くだけだ。

想像力が欠落し、自説の間違いを検証する動機付けを失い、他者への共感も喪失する。パーソナライズがもたらすフィルターバブルの一番大きい弊害がこれである。

さいごに

GoogleとFacebookは、積極的にパーソナライズを促進している。少し前にもFacebookはアルゴリズムを「改善」し、踏んだリンクをどれだけ長く読んでいたかで表示を変えると述べた。より私たちが強い関心を示すニュースを優先的に表示させるというわけだ。

私たちは心の一部では閉じこもりたがっている。他人と関係性を持つのは面倒だし、「気の合う人」たちだけでグループしているのは楽しい。でも、私たちは社会とも関与しなければいけない。たとえいやいやであっても。それに、ときどきは楽しいこともあるかもしれない。この二つの方向性が、「私」を形成する。

私たちは入ってくる情報で世界・価値観・自分を規定していく。だから、入ってくる情報が偏りかつ固定されているのは、想像以上の危うさがあるのだ。ノイズがなければ、進化もまたないのだから。

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