良い知らせと、悪い知らせがある。
少し前、原稿を書いていた。いつものようにカフェでぱたぱたとキーボードを叩く。そのとき「知的生産の定義」が必要になった。「あたまをはたらかせてうんぬん」というやつだ。残念ながらカバンには『知的生産の技術』は入っていない。でも、心配はない。ググれば見つかる。少なくとも、私自身がブログで何度もその定義を引いているので、ウェブには必ずある。
そこで「知的生産 定義」でググる。当たり前のように(おそらくパーソナライズされているから本当に当たり前なのだろう)、シゴタノ!のいくつかの記事がヒットした。求めていた定義もコピペできた。よかった、よかった。
ふと、ひとつの記事が目に入った。
「知的生産」は最強の武器である | Lifehacking.jp
2014年に書かれた記事。『知的生産の技術とセンス』という本の発売に関係して書かれた記事だろう。確実に読んだことがある記事だが、すっかり忘れて頭から読みふけった。そこで、以下の文章と遭遇する。
残念なことに、この広い概念を表現する言葉は、いまのところないのですね。倉下さん(@rashita2)もブログでこのように書いてます。
私の記事が引用されている。当然、リンク先も読みたくなる。結局、その記事も読んだ。
「知的生産」に代わる言葉を求めて 〜あたらしい知的生産試論(1)〜 | シゴタノ!
2014年の私は、知的生産と「知的」と「生産」に分け、それぞれを「物的」と「消費」とに対比している。今でもよく書いていることだ。が、そのときの私はそこから「浪費」という概念に結びつけ、さらにこんなことも書いている。
また、産業としてだけではなく、工業社会では「ものをつくること」のコストが下がり、DIYが一般的に行われるようになりました。情報社会では、それがセルフパブリッシングという形で表出してくるでしょう。ということは、ホームセンターの知的生産バージョンが一般的になるかもしれません。
DIYとセルフパブリッシングを対応づけ、そこから「ホームセンター」の情報版が出来るのではないかと勇み足ぎみに述べた。
「知的生産」のマトリクスについては、私の脳内にみっちりこびりついている。今でも、必要があればこの構図はぱっと引き出せる。が、浪費への展開とホームセンターの話はすっかり忘れていた。まあ、2年経っているから仕方が無いとも言える。
ともかく言えることは、この二つの過去の私の発想は、2016年の私の着想へとつながった。ちょうど書いていた原稿に膨らみがうまれ、また別の原稿のアイデアともなった。
良い知らせと、悪い知らせがある。
良い知らせは、すでに起きたことだ。つまり、過去の私の発想が、今の私の着想につながった、ということ。
ブログは他者に向けて書かれた文章ではあるが、その他者に「未来の自分」を含めるのなら、一つひとつのブログ記事は、情報カードとしても機能する。着想をちゃんとした言葉で書き留め、それを検索可能な状態にしておくことは、着想の蓄積につながる。アイデア地層というわけだ。
悪い知らせは、その点と関係している。つまり、私はその情報カードをうまく「くれて」いなかった。もし、うまく「くれて」いたならば、そのとき書いている原稿を書き始める前に、つまり構想の段階でその着想に触れられていたはずだ。が、結果は泥縄式になっている。
私がもし、「知的生産の定義」をウェブ頼りではなく、原典を見ながら書き写していたら、この「既知との遭遇」は起こりえなかった。ここにある種の怖さがある。
この状況をどのように捉えればよいだろうか。
「とりあえず見つかったんだからいいでしょ」と言ってしまうのはたやすい。しかし、見過ごしているものも多くありそうだ。
願わくば、ある種の原稿を書こうと思い立ったとき、それに関する自分の過去の着想をきれいに引き出せるような情報環境が欲しい。それは「未使用」と「使用済み」といった単純な切り分けでなく、「使用済みだが展開の余地がある」といったものも含まれている必要がある。
言うまでもないが、現状の情報整理環境でも十分な状態は維持できている。「既知との遭遇」がなくても、原稿は書けていたし、それでクオリティにおいても問題は生じなかった。が、私の知的好奇心は歯がゆい思いをしている。
どうやら、ナレッジマネジメントを次の段階に進める必要が出てきたらしい。
しばらくは指をぽきぽき鳴らしながら、この問題に取り組んでみたい。
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