0-知的生産の技術

発見の価値

たまたまTwitterで流れてきた、以下の記事を読んだ。

『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』を読んで、僕が考えたこと | シゴタノ!

一年前の記事だ。一年前にも読んだ。それも何度も読んだ。記事にはこうある。

例えば、倉下さんは『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』の中で、以下のような「発見」について書いています。

どうやら私は「発見」について何か書いていたようだ。孫引いてみよう。

こうした記事を書いてみて、私は一つの発見をしました。

それまで、ノートや手帳の使い方を工夫することは私にとって「当たり前」のことでした。何か特別なことをしているつもりはなかったのです。

しかし、それをブログに書いてみると、面白がってもらえる。あるいは楽しんでもらえたり、誰かの役に立ったりする。そういうことが起こりうるのだ。そんな発見をしたわけです。

そうだ、たしかにそんな「発見」をした。ここで何かが頭に引っかかる。雛鳥がタマゴの殻を内側からやぶるような、そんな心象の前触れのようなものが起こる。触手がまるで接続相手を求めるように縦横無尽にのたうち回っているかのような感触が生まれる。

何かが、あったぞ。

そうだ、これだ。

R-style » find the lightのススメ

あるとき、気がついた。そこには「発見」があるのだ、と。

なんてことはない。「発見」が鍵だったのだ。

私がブログを続けてこられたのは、その過程に多くの発見があったからだろう。コンビニでもそうだし、物書きでもそうだ。仕事をしているうちに、そこに何かしらの発見がある。それが面白さを豊穣させ、新たな試行を呼び寄せる。その試行が、また新たなる発見へとつながる。擬似的永久機関の誕生だ。

より多くを知れば、またより多くを知りたくなる。I can’t stop fall in ○○○○.

もしそれが、「こうすれば、こうなって、こううまくいきますよ」型だったらどうだろうか。そこでは失敗の可能性が丁寧に潰されている代わりに、発見のチャンスもまた潰されている(※)。たんになぞっているだけなのだ。
※むろん可能性はゼロではない。が、小さい。

もしそれが、パソコンのブラウザの操作方法であるならば、まったく問題ない。むしろ失敗の可能性なんてない方がよいだろう。ツールは使い方を覚えてからナンボである。ツールを好きになる必要は(一般的には)ない。また、それを使い続ける必要も(一般的には)ない。

ではそれを、仕事にまで敷衍できるだろうか。あるいは、人生にまで。


あらためて言うまでもないが、この記事も発見によって書かれている。発見の価値を発見したのだ。こぢんまりとした発見ではあるが、発見には違いない。こうしてまた私の擬似的永久機関は回り続けていく。

ちなみに発見可能性と失敗可能性はおそらく相関の関係にある。100%だとは言えないが、かなり近いものを持っているだろう。まだこの辺はうまくまとまっていないが、それについてもなにか発見したいものである。

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