物書き生活と道具箱

ノープロットと「既知の階段」

倉下さんの小説の書き方は私のブログとおんなじだった – のきばメモ

倉下さんが言うには、「小説やフィクションは、一行書いたら、必然的に導き出される次の一行があって、そうしているうちに結末にたどり着く」のだそうだ。

一言一句そのままではないのは、酒の席の記憶による引用だから当然で、補足があったら、R-Styleなどでしていただけるのではないだろうか。

ボールが飛んできたので、返してみよう。

「小説やフィクション」だけでなく、このブログすら「一行から一行」の形で書いている。この文章には事前の構成もないし、オチも見えていない。どんなことを書くのかは、書いた一行の連想によって規定される。

今、頭の中に、なんとなく立花隆さんの本を引用しようかという感触がある。でも、それも文章がしかるべきときにきてからだ。その間は、記憶に留めておくか、テキストのどこかにちょこっと書いておく。そういう予防的措置で時系列を歪曲させることはあっても、基本的には思いついたことを流れに沿って書いていく。それだけだ。

物語の場合は、それでまったく問題はない。誰かが部屋に入る。当然椅子に座る。コーヒーが飲みたくなるかもしれない。コーヒーを淹れに行くと窓の外にふと目が止まる。見たこともない黒い鳥が、大きな翼をひろげてこちらを威嚇し、やがて飛び去っていった。その鳥と同じ色をしたブラックコーヒーをカップに注ぎ、椅子に戻る。パソコンにはメールが届いてた。それを開くと……

こんな感じでストーリーラインは動いてく。よほど突飛な小説でない限り、ストーリーは前の行動と次の行動は接続している。自分はそれをただ眺めながら描写していけばいいだけだ。事前のプロットは、そこでは特には必要とされない。

もちろん、話がどう終わるかはまったくわからないのだから不安定ではある。でも、その不安定は「ハラハラ・ドキドキ」の源泉でもある。ようはスリリングなのだ。言い換えれば、書きながら自分自身が次の展開を楽しんでいる。それも物語を書くことの楽しみなのだ。

つまり、物語を書くことには発見がたくさんある。


私はまったくプロットを立てないのだが、プロットを立てる派の人の話を聞いていて想像したことがある。それは、「結局は同じなんだ」ということだ。私は頭の中に浮かぶ物語を、そのまま描写していく。情景描写もあるし、会話文もある。その記述は、物語のテンポと同じだ。

プロットを立てる人は、この作業を早回しでやっている気がする。必要な部分だけを抜き出し、まるでダイジェスト版のように進める。でも、基本的に物語の語り方は同じなのだ。違いは、最初に記述するものの濃淡だけ。ノープロット派は、そのすべてを記述し、プロット派は輪郭だけを書き留める。でも、どちらも基本的には脳内で物語を追いかけ、記述している。

プロット派の人の話を聞くまでは、私はプロットを立てるというのは、何かしら雛形ものをベースに「それらしいもの」を組み上げてから、そこに肉付けしていく作業のように感じていたのだが、たぶんそうではないのだろう。ミカンを食べるとき、一つひとつの小さな皮を取り切ってから食べるか、食べるところから皮を取るのかの違いのようなものだ。


しかしながら、私は実用書を書くときは、「目次案」なるものを事前に作る。基本的にはそれが外部から要請されるものだからであるが、要請されなくてもやっぱり自分で作る気もする。

小説ならば、情報の開示はラフな順番が許容される。ある登場人物がいて、その紹介がずっとずっと後半でもまったく問題ない。しかし、ある種の知識やノウハウを伝える場合は、そういうわけにはいかない。読者にとっての未知を伝えるためには、きちんと「既知の階段」を整える必要がある。

そのためには、「まず最初にこれを説明して、次にこれを説明して、最後にこれを説明する」という流れが必要だ。それなしだと、書いている方は楽だが、読んでる方はさっぱりということになってしまう。知識を伝達することが、その本の役目であるならば、それは機能不全と言えるだろう。

しかし、これも考え方の一つである。思いつくままにすべてを書ききった後、それらの順番を編集し、「既知の階段」を整えることは可能かもしれない。だいたい小説だって、このブログの文章だって、書き上げたあとにちょこちょこ順番を入れ替えて「それらしく」整えているのだ。だったら、ノウハウ本だって同じことは可能だろう。

ただし、その場合はMECEがちゃんと満たせているのかの検討が必要だろうし、それと共に「かなりの大手術」を覚悟することも必要だろう。もしかしたら、事前の「目次案」はこの大手術を緩和する意味合いがあるのかもしれない。全身にメスを入れてから手術箇所を探すのはあまり得策とはいえない。だから、面倒な検査をやまほどやるわけだ。でも、それを無駄と断じることはできないだろう。


なんとなく、「文章を書くこと」と「発見」について書くことになるのかと予想していたが、あまり大きなトピックにはならなかった。立花隆さんの本の引用も出てこなかった。こういうこともよくある。

それでも成立しうるのが、ブログの良いところだ。なにせ、タイトルは最後につければいいわけだから。

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