断片からの創造

発見の手帳と知的なもののコア

ここ最近「発見」についていろいろ書いてきた(※)のだが、そういえばとふと思い出した。
発見の力学

発見と言えば、「発見の手帳」である。『知的生産の技術』の序章を飾るこの知的生産ツールを忘れてはいけない。

知的生産の技術 (岩波新書)
梅棹 忠夫
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発見の手帳

「発見の手帳」とは、その名の通り「発見」を記すための手帳だ。

スケジュールや備忘録用のメモではない。自分の心の動きを書き留めるための装置である。

わたしたちが「手帳」にかいたのは、「発見」である。まいにちの経験のなかで、なにかの意味で、これはおもしろいとおもった現象を記述するのである。あるいは、自分の着想を記録するのである。(中略)たまってみると、それは、わたしの日常生活における知的活動の記録というようなものになった。

面白いと思った現象、あるいは着想を記録する。それが発見の手帳だ。引用中に「知的活動の記録」とあるから、なにやら高尚そうなものがそこに記されている気がするかもしれないが、実体はこんなものである。

そのかわりに、たとえば、犬にかまれたときに、傷あとの歯型が、どういう形にならんでいついたとか、「すもうとり人形」の構造だとか、その日のたべものの種類と味の記述だとか、ニンニクの学名についての考察だとか、子どもの湿布の仕方だとか、そのほかまったく、いわばがらくた的な経験ないし知識が、いっぱいかいてある。

何の役に立つかはまったくわからない。本人も、時間がたってみるとさっぱりだと書いている。しかし、重要なのはそこではない。

しかし、それはそれで、そのときには、あらたなる事実の「発見」として、なにほどかの感動をともなっていたことにはちがいないのである。

「発見」には、感動が伴う。たとえそれが微量であるとしても、心の動きが発生するのだ。

ここでは「発見の手帳」の知的生産的効用については検討しない。それよりもむしろ、もっと前段階の話をしたい。どれだけの情報や体験が目の前にあっても、そこにいかなる心の動きも発生しないのならば、発見の手帳には何も書くことがない。手帳を持っているからと言って、心の動きが発生するようなこともない。

発見こそが、エンジンなのだ。

知的なもののコア

「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるものである。まいにちみなれていた平凡な事物が、そのときには、ふいにあたらしい意味をもって、わたしたちのまえにあらわれてくるのである。

梅棹さんがこう書くと、いかにもすごいことを見出すかのように聞こえてしまう。が、しかしそうではないのだ。

はやくなるのがはやい:Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

子「この電車、はやくなるのがはやいね」
母「はやくなるのがはやい?」
子「うん、はやくなるのがはやい」

この記事で紹介されている男の子も立派に発見している。たぶんそれを見つけた瞬間、彼の世界は少しばかり(あるいは大幅に)新しい姿を持ったことだろう。それこそが発見である。

そして、その「あたらしい意味」をもたらす作用こそが、「知的」であり、知的生産のコアとなる要素でもある。

その作用は、「まいにちみなれていた」風景に変化をもたらす。それこそが人間と哲学的ゾンビの違いでもある。

さいごに

「発見の手帳」ではないが、私のEvernoteのアイデアノートは、ほとんど奇妙とも言える記述で満ちあふれている。

screenshot

  • キュレーター・司書のAirbnb
  • ウィトゲンシュタインとWorkFlowy
  • アトム的事実
  • 「その面白さ、説明してください」
  • 代替案の確保は冗長性であり、コスト負担となる。
  • 書きたくても書けない。
  • ロジスティックの情報版
  • Webクリップと、魚
  • 書くことは検閲である。それも二段階の検閲である。
  • [T]Evernoteの新たなナレッジマネジメント
  • 本当は残酷な成功法則
  • 情報エネルギー過剰時代
  • 文章のチェック方法
  • サブカード・ループ
  • 「やりたいことをやらないと」幸せでない
  • 「そうだ、人間は直感的に生きればいいんだ」と直感的に理解する。非常に心地よい。

他の人からみたらさっぱりだろうし、私が説明したとしても「?」だろう。しかし、少なくとも私はそれを思いついた瞬間、ごくごく微量であっても「!」と思ったのだ。単に情報を摂取したのではなく、「私が見つけた」という感覚がそこにはあった。

どれだけちっぽけであろうとも、やはりそれは感動と呼んで差し支えないだろう。心が動いたのだ。そして、世界が新しい姿をまとったのだ。

発見する生活とは、次々と世界に新しい姿を与えていく生活のことだ。それは世界の可能性を信じることであり、同時に自分の傲慢さを却下することでもある。発見されるものが残っているなら、私はこの世界についてまだ十分には知っていない。新しい発見をしたら、世界はまた違った姿を見せてくれるかもしれない。

発見は感動でもあり、開拓でもある。あるいは世界の更新作業なのかもしれない。

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