断片からの創造

発見についての「一枚のノート」

今週は、ずっと「発見」について書いてきた。

発端となったのは、この記事だ。

R-style » find the lightのススメ

個人的感触のある記事ではあったのだが、それが徐々に膨らんできたのには驚いた。なので、できるだけいろいろ場所からそれを眺めることにした。

R-styleは基本的に記事を散らすように__同じテーマを連続させないように__書いているのだが、ときどきそれをねじ曲げる。今回の一連の「発見」の記事もそういう逸脱である。ああ、そうそう。逸脱は楽しいものだ。

R-style » 発見の価値
R-style » 気づきと発見
R-style » ノープロットと「既知の階段」
R-style » 「私はなぜ、この仕事に飽きていないのか?」
R-style » 発見の手帳と知的なもののコア

ブログ記事は基本的に「発散」傾向にあるし、上記の記事たちもそうである。でも、これまでとは少し違う気がする。あるいは、自分自身がどこかで変えようとしている気がする。

私は基本的に気ままで、飽きっぽく、思い付きで行動する。そういう人間には大きな思想は無縁な存在である。いや、中くらいの思想すら怪しい。なんというか、全体的に小粒なのだ。

でもって40歳も視野に入ってきた中で、はたしてそれでいいのだろうか、という思いが徐々に生まれつつある。なんというか、こう、どっしり構えて巨大な城を構築した方がいいのではないか、という気がする。

しかしながら、どうやってそれをすればいいかまったくわからない。これまで小粒な人生を送ってきたので、そのための姿勢もノウハウもまったくわからない。

だからまあ、手始めにブログ記事の書き方を変えてみたわけである。

でも、これだけならば基本的にこれまでと同じである。発散しかない。逆に言えば、収束が必要だ。簡単に言えば、上記の記事群で考えたことを(比喩的な意味で)「一枚のノート」にまとめる。そしてさらにそれをベースにして発散記事を書く。その結果をさらに「一枚のノート」に集約する。

そのようにして「一枚のノート」を少しずつ育てていくことが良いのではないか。そんな仮説を持っている。パラフレーズし、肉付けし、削り落とし、まとめ、構造化する。そういう作用を「一枚のノート」に与えること。それが思想の構築につながるのではないか。

というのは、もちろん単なる仮説なわけで、本当にそうなのか、そしてそんなことが実行できるのかもまだわからないわけだが、そこに何かしらの発見があると信じてやっていくしかない__みたいな悲壮感のある決意はぜんぜんなくて、単に「ちょっとやってみよう」というぐらいの気持ちである。やっぱり小粒なのだ。

発見すること。

発見するためには、「同じこと」をしていてはいけない。

同じ動作を繰り返してもいい。しかし、違う視線を持たなければならない。新しい物事を見つめる目を持たなければならない。「これは、こういうものだ」と眺める事物からは発見は生まれない。

その意味で「マニュアル追従主義」は、発見とは縁遠い。マニュアルだって一つの情報であり、そこには発見の余地がいくらでもあるはずだ。しかし、マニュアルに盲目的に従うこと、いや「こうすれば、こうなる」と信じ込んでそれをやることには、発見の余地はない。世界を見る目が、そのように固定されるからだ。

逆に言えば、「こうしても、どうなるかわかりませんよ」という態度で事象に臨むとき、そこには発見の可能性が溢れかえっている。そのとき世界は見つけられたがっている。当然、そこには失敗する可能性(うまくいかない可能性)が付きまとう。それを引き受けることこそが、発見のための姿勢でもある。

発見することの前段階には、考えることがある。自分の頭で考えること。

その思考は刹那のときもあれば、フルマラソンのときもあるだろう。どちらにせよ、考えることが必要だ。梅棹忠夫風に言えば、「自分の頭をはたらかせる」ことが必要だ。それがあって、はじめて「発見」がやってくる。逆に言えば、「自分の頭をはたらかせない」限り発見は生まれない。安易な気づきは発見ではないのだ。

梅棹忠夫は「発見の手帳」を「ウィルソンの霧箱」のようなものだと言った。その比喩は言い得て妙だが、実は少し違う。「ウィルソンの霧箱」は、私たち自身なのだ。脳の情報処理作用の過剰こそがウィルソンの霧箱で、それが世界に意味を与え、新しい発見を促す。

私たちは生まれ落ちたとき、周りに飛び交う音の流れから「言語」を発見する。その事実に私たちはもう一度立ち返るべきだろう。私たちは言語を脳にインストールするわけではない。言葉を発見するのだ。そしてそれが人間が学ぶということである。

発見は楽しい。脳は快を感じているはずだ。エウレカ! だから人は「発見」が埋まっている領域にじりじりと引きずり込まれる。学徒と呼ばれる人たちは皆そうだろう。実は、博徒と呼ばれる人も同じなのだ。後者は「自分なりの法則」を発見して楽しんでいる。違いは、「自分なり」かそうでないかの違いだけだ。

仕事でも趣味でも、飽きない対象には発見がある。あるいは発見があるからこそ、対象に飽きない。受け継がれる文学作品が豊かな文脈を持っているのは、そこに発見可能性が埋まっているからだ。言い換えれば、文脈の豊かさとは発見の可能性である。現代を見渡してみてもそうだ。人気のある商品は、それぞれの人が何かしらを「発見」できる素地を持っている。

生命を維持するための活動を除けば、「発見」ほど根源的な欲求はないのかもしれない。だからこそ、それに訴えかけるものは時代を超えて残っていく。ビジネスチャンスもある。

発見は、人生を豊かにし、人類も豊かにする。これを放置する手はないだろう。いや、そもそも手放したくても手放せないのかもしれないが。

発見とは世界との邂逅である。

そしてそれは、自分自身を映す鏡でもある。


さて、この「一枚のノート」はどのように育っていくだろうか。

とりあえず仮の見出しをつけて、各項目に肉付けすることから始めてみよう。

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