0-知的生産の技術

エーコは端的に答えた。「考えをまとめて結論を導く技術ですよ」と。

問うたのは、ジャン=クロード・カリエール。『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』に収録されている対談だ。カリエールは、次のように問題を提起した。

ですが、フィルタリングなしで、ありとあらゆる情報が入手可能になり、端末を使えばなんでもいくらでも知ることができるようになった現在、記憶とはいったい何でしょうか。記憶という言葉は何を意味するのでしょう。電子召使いみたいなのがそばにいて、言葉で発した質問や、言葉にならない疑問に答えてくれるようになったら、私たちが知るべきことは何でしょうか。義肢的な存在が何でも知っているとしたら、それでも我々が習得しなければならないことは何でしょうか。

それに対する答えが、タイトルの一文である。

もうすぐ絶滅するという紙の書物について
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まず、カリエールの問いを検討しよう。

昔の本はほとんど残っていない。焼かれた本もあるし消失した本もある。でもって、権力者が残そうと選別した本は比較的残っている。私たちが過去について知りうる情報は、フィルタリングされている。

対してインターネットは玉石混淆だ。選別はない。ただし、あまりに玉石混淆だと使いにくいのでGoogleが頑張って検索結果の精度を上げてくれている。「検索結果の精度を上げる」。実に良い表現だ。そこにはどのような恣意性の匂いも感じられない。でも、やはりそこには選別がある。

王が去り、また別の王が玉座についた。

フィルタリングは、情報と接する場合に必ず直面する問題であり、しかもその問題は今後より深刻さを増していくだろう。私たちが「情報を自分で見分けるなんて面倒だ。誰か代わりにやって欲しい」と強く願えば願うほど、フィルタリングの問題は強まってしまう。「あなた向けに最適化された情報」。実に良い表現だ。そこにはどのような恣意性の匂いも感じられない。でも、その情報があなたに適していると判断したのは誰なのだ。

シビュラは万物の導き手なのだろうか。


さらに言えば、「ありとあらゆる情報」が手に入るようになったわけでもない。インターネットは出てこない情報もあるし、有料コンテンツになっているものもある。

でももし、SF的思考実験をして、そういうことが可能になればどうだろうか。つまり、「ありとあらゆる情報」が本当に手に入るとしたら。

それでも、いくらお食事処についての詳細な情報が手に入ったところで、そこで自分が食事をしたときに感じるであろう体験的情報までは得られない。VRがとんでもなく進み、脳に浸食してくるなら(要するにソードアート・オンラインの世界なら)話は別だが、そこまでいくと、「情報を得ること」と「体験すること」の線引きがあやふやになる。少なくとも、インターネットで検索して手軽に情報が得られるのとは違う。だから、この方向はいったん仮留めしておいて先に進もう。


電子召使い__おそらくはアリスのような存在がいたとき、私たちが知るべきことはなんだろうか。

おそらくこの問いは、世界モデルがあまりにも単純すぎるのだろう。知ることは、単に知識ブロックを一つ増やすことではない。『学びとは何か』で解説されている通り、何かを学ぶことは、知識ネットワークの再編であり、再構築なのだ。

「知る」あるいは「学ぶ」ということが、アイテム欄にアイテムを一つ増やすだけのことならば、アリスに何でも聞けばいい。彼女は「はい、マスター。それは……」と流暢に(なんならCV.花澤香菜で)答えてくれるだろう。しかし、「知る」や「学ぶ」はそういうものではないのだ。それは、私の中にある世界の記述を変えてしまう。

概念同士のリンクが繋ぎ直され、新しいネットワークが誕生する。また新しい知識を取り込めば、さらにネットワークは変化する。同じものを取り込んだとしても、元々の形が違うネットワークであれば、変化した後のネットワークの形も変わる。そうした変化を積み重ねれば積み重ねるほど、それは固有の世界記述となっていく。それを、我々2010年代の人間は、今のところ個性と呼んでいる。

だから、そう。私たちが知るべきことは、知りたいと思ったことなのだ。

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エーコはこう答えた。

「考えをまとめて結論を導く技術ですよ」

この答えからは、何かしらノウハウ的な感触が感じられる。「思考法」とか「フレームワーク」とか、何かしらそういうものだ。しかし、そんなものはアルゴリズムで代替できてしまう。わざわざ我々が習得すべきこととして挙げるものではない。

よく注意して見ることだ。

  • 「考え」とはなんだろうか。
  • 「まとめる」とはどのような行為だろうか。
  • 「まとめる」ためには何が必要だろうか。
  • 「結論」とは何だろうか。
  • 「結論」の機能とは何だろうか。
  • 「導く」とあるが、それはリンゴが木から落ちるように自然に発生するものではないのだろうか。

「考えをまとめて結論を導く技術」と言うと、いかにも主体がなくても存在しうるものに見える。でも、実はこれは意識的主体としての人間がいないと成立しえないものだ。もちろん、意識的主体としてのAIが存在するなら、彼ら・彼女らの内側でも成立するだろう。私は別に人間中心主義を取るつもりはない。ただ、(無意識を含む)意識の機能を重視しているだけだ。

「いや、意識とか考えって不要じゃないの?」というのもまた意識の中で発生している。否定を肯定するためには、肯定を否定しなければいけない。ややこしい。

考えをまとめて結論を導く技術は、一つには外側に向けた技術だ。それと同時に内側に向けた技術でもある。それは世界=自分を変容させる技術である。自己による再プログラミング。挿入されるのは、中身が分からない関数だ。だから、何かを学べば学ぶほど、自分がわからなくなってくる。実におっかない。布団を被って震えていたいところだが、もしそうしていたら人類は早々と死に絶えていただろう。

「死に絶えて何が悪い?」。そう思えるのも意識のなせる技である。少なくとも「我々」はその牢獄から抜け出すことはできない。想像力だけが唯一の希望だが、それだって無意識の影響を受けてしまう。


「〜〜があるから、××しなくていい」

その二つは、本当に互換性があるのだろうか。代替可能なものなのだろうか。それを見極めるための能力が天秤に載っていたら、どうしたらいいのだろうか。

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