ありのままに生きること

シャッ、シャッ、シャ。僕はカード束を存分にシャッフルする。

天命を示す程度には十分に混ぜられたカード束。そのトップカードをめくる。

ジャガーノートの正位置。示すのは、高まる内圧、衝動的欲求、圧倒的破壊。メッセージは、

「ありのままに生きること」

そこで僕は止まってしまった。終了条件を記入し忘れたループ処理みたいに。


人は「ありのままに生きること」なんてできるのだろうか。

一見、簡単そうに思える。だって、ありのままに生きればいいんだから。他人からの影響を、隅から隅まで排除してしまえばいい。

でも、こう考えよう。誰かから「ありのままに生きなさい」と言われて、「よし、ありのままに生きます」と頷くとき、そこに他人の影響は発生していないだろうか。「ありのままに生きなさい」と言われて、「ありのままに」生きようとするとき、それは本来的な意味での「ありのまま」と言えるだろうか。

むしろそれは、作られた「ありのまま」ではないだろうか。オーガニック・マイセルフ。

いや、他者を介在させる必要すらない。自分ひとりで「ありのままに生きよう」と思ったときですら、迷宮の扉は開いている。


行動経済学が示すのは、私たちの考えや判断は環境に強く影響を受ける、ということだ。認知はバイアスを内在している。それが「ありのまま」の姿である。

何かを喜び、何かに怯え、何かに怒り、何かを糾弾する。動的に変化する環境の中で、そうした感情の動きもまた移ろい、揺らいでいく。「確固たる自分」なんてどこにもない。それこそが、「ありのまま」の姿である。

「ありのまま」で生きようとするとき、不思議と人は良い側面だけを固定し、それを増長させようとしてしまう。まるでネガティブなものは「ありのまま」の自分にはいっさい含まれていないかのように。それはいびつに歪んだ鏡のようだ。

大きな壁で取り囲み、他者の侵入を一切封じる。そうしてできあがる街は住み心地が良いだろう。そのこと自体は別に否定されるいわれはない。

でも、それは「ありのまま」なのだろうか。「ありのまま」的に無批判に受け入れて良いものなのだろうか。


自我の認識は、思い通りにならない他者の存在によって発生する。この世界からあらゆる他者を引き算して残ったものが、自分なのだ。ドーナツの穴的自我。

つまり、「自分」の根源自体が他者に影響を受けている。それが「ありのまま」のありのままの姿なのだ。

ということは、ありのままで生きようとするならば、「ありのままで生きよう」と思わないことが肝要となるかもしれない。

いや、しかし、「ありのままで生きよう」と思ってしまうことも、「ありのまま」の一部なのかもしれない。

こうして思考はぐるぐると巡ってしまう。

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