価値の円が重なるところ

「作品」と「価値」をめぐる時間軸(単純作業に心を込めて)

「作品」の「価値」は、自分以外の誰かによって見い出される。

ここに時間軸を入れて考えてみましょう。

少し違う視点をとってみよう。


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価値は自分でも見つけることができる。自分だって一人の人間なわけだから。でも、その価値が他者に共有できる価値であるとは限らない。表現の世界で言うところの自慰的なものになってしまう可能性がいつでもある。

もちろん、価値は他者からも見出されるものだ。人口比から考えても(1:50億)、その可能性の方が大きい。自分が想定しなかったような価値を他の誰かが見つけてくれることは、極上の体験かもしれない。

そして一周回る。

他者が見出してくれた価値を知る「自分」が、見出す価値。これも一面では自慰的なものであろう。しかし、スタートとまったく同じと言えるだろうか。そこにフィードバックは発生しないだろうか。言い換えれば、他者から価値を見出された経験は、自らが見出す価値に揺さぶりをかけないだろうか。


自慰的なものを大量生産しても虚しいだけだ。作品とは、誰かに届けるためにあるのだから。

かといって、他者から要求されるものを作り続けるのも虚しい。特に、その要求されるものに自分が価値を感じていなければなおさらだ。自分がゴミみたいだと思っているものを、他の人が有り難がっている状況を想像してみればいい。それで作品を作り続けられるだろうか。

自分が「はい、これは面白いですよ」と提供したものが、「ほんとだ、これ面白い」と言ってもらえること。言い換えれば、見出す価値の円が(ベン図的に)重なり合っているところ。そこが一つの理想的な地点であろう。ただし、二つの境界線が接するところなので、なかなか至ることはできない。こればかりは仕方がない。

でも、そういうギリギリのところで円が重なり、あまつさえ「ここも、面白いですよね」と新たな価値を見出してもらえるなら、この上ないと言えるだろう。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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