6-エッセイ

理想と現実のadjusting

なにやら、素晴らしい人生を生きるには、夢や目標が必要ならしい。

慌ててそれを設定してみる。脳をひねり、本を読み、それを見出す。

ああ、素晴らしき人生よ。

目の前には、理想的な時間の使い方やら、やりたいことのリストが大量に並ぶ。

もうすぐ、後一歩でそこに近づける。

とは言え。

一方ではこれまで続けてきた人生がある。やっかいなお荷物だ。

ひとつには習慣があり、ひとつにはしがらみがある。それが私の人生を束縛する。

「やりたいこと」を詰め込みたい袋の中には、「やってきたこと」が大量に入っているのだ。

それらは今の「私」を構成しているものであるから、簡単に捨て去ることはできない。

「私」を捨て去る覚悟が必要になってくる。

少し考える。

何かによって刺激された「あれもやりたい」、「これもやりたい」という気持ちがある。

だからといって、それができる証左にはならない。

やりたいことと、できることは同じレイヤーにはない。

では、すべてを捨て去ればよいのだろうか。

夢も持たず、希望も抱かず、健全な欲望すら否定して生きていくのが、「正しい」のだろうか。

なぜ人は、そんなに簡単に状況を二項対立に落とし込んでしまうのだろうか。

脳にとってグラデーションはあまりに負荷が高いのだろうか。

片方に、気高く理想に燃えた目標がある。

もう片方に、地味でどうしようもない日常がある。

どちらかを選ばなければらない──と、誰かに言われたことがあるだろうか。たぶん、あるだろう。「理想商売」をしている人にとって、そういうトークは必然だからだ。

しかし、本当のところは選択肢はそれだけではない。

adjustingすればいいのだ。

理想で満ちた一日を作るのは本当に難しい。多くのものを捨て去る覚悟が必要だ。常人にはそれはあまりに高いハードルである。

かといって、惰性に満ちた習慣だけで生きる必要もない。やりたいことリストを作ってしまったのならば、わずかでもその実現に向けて行動していくことには充実感が伴うだろう。それを否定できる根拠はどこにもない。だったら、やればいい。

ただし、それは24時間を作り替える必要も、まったく新しい「自分」になる必要もない。

一日の行動を眺め、「これはなくなっても支障はないな」というものを見つけ、それを「やりたいことリスト」の行動に置き換える。ただそれだけだ。

タスクリストを、わずかに書き換える。

It is all.

何も劇的には変わっていない。時間で見れば5分ほどの違いかもしれない。

でもそれが、adjustingだ。

「やるべきこと」と「やりたいこと」。

どちらにどれだけ重み付けできるのかは人によって違ってくる。恵まれた環境にいる人ほど、「やりたいこと」に時間を掛けられるだろう。そればかりはどうしようもない。そこには差がある。言ってみれば不平等だ。

でも、だからといってなんだろうか。

「そんなのフェアじゃありません」と叫び続けていれば、「いやいや済まなかった。やり直すね」と神様が人生を作り替えてくれるのだろうか。

そんな神聖リコールに期待したまま、時間だけを無為に使い続けていくことに何か意味があるのだろうか。

人は、自分にできることをするしかない。

それがどれだけ滑稽であっても、力不足であっても、みっともなくてもそうなのだ。人は、自分にできることをするしかない。

片方に日常があり、もう片方に理想がある。
片方に現実があり、もう片方に夢がある。

理想を持つことは、あるいは夢を胸に抱くことは、それが叶うことを直接確約してくれたりはしない。だから、そう。それは絶望する可能性を同時に引き受けるということでもある。

しかし、人は絶望の中にあっても生きることができる。絶望と共に歩んでいくことすらできる。なぜならば、人は絶望の中にも新しい希望を見出す力があるからだ。

人の心は二項対立なんかではない。あたかもそのように人の心は、自分の心を扱ってしまうが、実際は違う。単純なAかBかで切り分けようとするのは、脳がサボりたがりなだけだ。現実の姿は、それとは違っている。

やるべきことのタスクリストを作り、そこにわずかでもやりたいことを加えてみること。あるいは、加えようと試みてみること。

adjusting.

何もかも思い通りにはならないだろう。100の期待のうち15ぐらいしか満たされないかもしれない。でも、人生とははじめからそういうものだ。ままらない。そして、ままならないからこそ、「予想しないもの」が次々に生まれてくる。それはきっと素晴らしいことなんだと思う。

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