7-本の紹介

【書評】〈わたし〉は脳に操られているのか(エリエザー・スタンバーグ)

重要な問題は明らかだ。

「自由意志は存在するのか」

これは致命的な問題である。もし自由意志が存在しないなら、あらゆる行為から道徳的責任が消失する。となれば、社会のルールを一から書き換えなければならない。

仮に自由意志が存在しないとしよう。ある脳の状態Aがあり、そこに環境的刺激Bが注ぎ込まれれば、行為Cが必ず発生するとする。〈わたし〉はそれをただ眺めるだけの存在で、行為Cについて何一つ関与できない。だとすれば、その行為Cが強盗であろうと、殺人であろうと、〈わたし〉は罪には問われない。心神喪失とはまさにそういう状況のことだからだ。

これがいかに危うい話なのかはご理解頂けるだろう。おそらく「人間」と「AI」との線引き以上に火薬が仕込まれている問題である。

しかしながら、神経科学の世界では、どうやら自由意志の存在は否定的に扱われているようだ。〈わたし〉は行為の決定に参画できない、すべては無意識のうちに決まってしまっている。そういう話を最近よく耳にする。

〈わたし〉は脳に操られているのか : 意識がアルゴリズムで解けないわけ
エリエザー・スタンバーグ
インターシフト
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本書はそれらの議論をさらいつつ、それぞれに検討を加えながらも、最終的にはそれらに反旗を翻す。つまり、「自由意志はある」と主張するわけだ。

概要

目次は以下の通り。

  • はじめに: 人間に自由な意志はあるのか
  • 第1章: 人を殺したのは脳のせい?
  • 第2章: 意志はころがり落ちる石なのか
  • 第3章: 二つの対立する答え
  • 第4章: 頭のなかの嵐
  • 第5章: 抑えられない衝動
  • 第6章: 神経科学者の見解は間違っている
  • 第7章: 理性は情動に依存する
  • 第8章: 決断の引き金が明らかに
  • 第9章: マジシャンとしての脳
  • 第10章: 心や体の動きを予測する
  • 第11章: 人間はプログラムされたマシンか
  • 第12章: 悪徳の種が脳に植えられている?
  • 第13章: 倫理の終わり
  • 第14章: 意識の深さを探る
  • 第15章: アルゴリズムは「限りのない問題」を解けない
  • 第16章: 内面世界を意識的に旅する
  • 第17章: 道徳的行為主体はいかに生まれるか
  • 第18章: 心の宮殿

第1章から第4章では、自由意志にまつわる問題を取り上げ、第5章から第13章までで、自由意志の存在を脅かす神経科学の状況を俯瞰する。続く第14章から第18章は、それらを踏まえた上での著者の主張が展開されていく。

正直に言うと、著者の主張は「その通りだ」と強く頷けるようなものではない。脆い印象すら受ける。それでも、本書は非常にスリリングだ。これまでなかったものに接近しようという姿勢を感じる。少なくとも、片方で自由意志の不存在を吹聴しながら、もう片方では内面でそれを信じているような、奇妙なダブルスタンダードよりもはるかに意欲的な態度と言えるだろう。

著者は背理法的なアプローチを取る。

  • 脳の状態と行動が決定的であれば、それは方程式として記述できる(アルゴリズムとして表現できる)
  • アルゴリズムは、限られた問題(状態)にしか対応できない
  • しかし、現実の私たちは限りない問題(状況)に対応できている
  • つまり私たちの行動は決定されてはいない(≒決定する主体がどこかにある)

たしかに私たちはさまざまな状況に対応できる。ルンバは平らなところしか掃除できないが、私たちはデコボコな地面の上でも、ふかふかのフトンの上でも掃除できる。行動だけではない。私たちは、あらゆる状況に対して、手に入る情報を総動員し、それらを重み付けし、ときに関連づけて答えを出す。「知性」の最大の特徴は、その汎用性にあると言われるが、まさに私たちとアルゴリズムを分けるものは、限りない問題に(言い換えれば事前にプログラミングされていない問題に)対応できる能力にあると言えるだろう。

しかしながら、上の論理展開は少しあやふやな部分が残る。「アルゴリズムは、限られた問題にしか対応できない」は本当だろうか。「現実の私たちは限りない問題(状況)に対応できている」はどうだろうか。単に私たちは、「自分に対応できる状況にしか対応していない」可能性もある。つまりパターン認識で「限りない状況」を「限りある状況」に変換しているわけだ。

このように少し危なっかしい部分もあるのだが、それでも著者の主張は新鮮であり、検討に値する。少なくとも、「自由意志は存在しないが、道徳的責任は(なぜか)存在する」という欺瞞的な状態に留まっているよりも、進歩的だと言えるだろう。

さいごに

〈わたし〉という意識主体の感覚はあまりにも強烈で、それが自分の全体を支配・コントロールしているような感覚を覚える。神経科学が示すように、その感覚はたしかに錯覚だ。〈わたし>という意識の領分は非常に狭い。人間の行動の大半は無意識で行われるし、フレーミングなどのバイアスも存在する。薬物で気分が良くなることもあるし、首を縦に振らせながら質問すれば、肯定的な返事が返ってくる可能性が高い。もしかしたら、腕を動かすと決める前にもう腕を動かすための準備電位が発生しているのかもしれない。

しかし、これらのことを総合としたとしても、まだ「自由意志は存在しない」とまでは言い切れない。「自由意志は、思っているほど自由ではない」と言えるだけだ。

本書が提示するように、さんざんの熟慮を経て出てくる決断が、本当は無意識が決めていたり、状況が発生したときにもう決定していると言われると、どうしても違和感がぬぐえない。

手を動かしたり、点を目で追ったりすることは、たしかに無意識的反応かもしれない。そこには自由意志は介在していないかもしれない。その領分については、もう自由意志が自らの領土だと宣言しても、誰も耳を傾けないであろう。

しかし、「人間」の決断や行動は、それだけなのであろうか。むしろ、そうでない決断や行動こそが「人間」を「人間」たらしめているのではないだろうか。本書は、その基本的かつ重要なことを再確認させてくれる。

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