生きるという現象

自分とは何か。
自分ではないもの、ではないものの総体だ。
馬鹿げてる。
いや、それが事実さ。
まるで抗体だね。抗体的自我。
接することだよ。あらゆるものに。そうして反応をうかがうんだ。
自分か、そうでないか。絶え間なき自己確認。
その蓄積が自己認知、自分が自分に対して行うアイデンティファイを形作ってくれる。
シェイクなんだ。
触れること体験すること。
考えること確かめること。
それを繰り返して形成されていく何か、いや感触と言っていい。それが自分だ。
イデアではない?
イデアは幻想だよ。使い勝手のいい妄想さ。中身は単なるパターン認識に過ぎない。
でも、僕たちはそれを体験する。ありありとした事実として。
現象さ。すべては現象。錯覚だって現象には違いない。僕という自我でさえもね。
つまり、自分というクオリアなわけだ。
それが世界を構築している。
あまりに繊細でどこまでも滑稽な話だ。いつ崩れ去ってもおかしくない。
クオリアは決して交わらないし、試験管に閉じ込めておくこともできない。
世界は分断されている?
当たり前のようにね。
だからこそ、僕たちはつながりを求めて手を伸ばすんだ。
ニューロン的欲望。シナプス的デタッチメント。
プラトニックだ。
彼らは決して直接結合したりはしないだろう。情報を閾値的に伝え合うだけだ。
生き血的?
違うよ。まあ、似たようなものかもしれないけど。
自分とは何か?
そう問うている主体こそが、自分ではあるね。そして、それに答えようとする動きが生きるということでもある。
触れて確かめる。
体験して考える。
構築と脱構築の追いかけっこ。
静止は許されない?
何と言っても現象だからね。
ゼノンが放った矢だ。
瞬間的理解では、世界を見誤るのさ。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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