6-エッセイ

自分の階段を登る、自分のグラフを見る

これは、半分ぐらいは希望を潰すお話です。


他の人が大きい仕事をしていたりすると、「おぉ〜、すげーな」なんて思うわけですが、でも、その後に「それに比べて、自分なんか……」みたいになっちゃうのはだいたい不健全です。精神的にもあまり良いことはありません。

「それに比べて」とありますが、そもそも比べるものではないですよね。自分は自分であり、他の人は他の人です。比べるものではないものを比べてしまうと、不条理な結果が訪れます。ゼロ除算のようなものです。

それぞれの人には、自分なりの階段があります。結局の所、それを登るしかありません。

人によっては階段のスタート地点が違うでしょうし、一段の大きさも異なるかもしれません。年齢や能力によって、そのときにいる「高さ」みたいなものは、それはもう圧倒的に違うわけです。

でも、だからといって、ひょいっと別の人の階段に乗り移るわけにはいきません。その人の階段は、その人のためのものであり、その人ひとりぶんの足場しかないのです。

もっと言えば、現代のメディア的状況のせいで、他の人の階段があまりにも近くに見えて、あたかも飛び移れるかのように錯覚してしまうのかもしれません。安心してください。実際それは手の届かない場所にあります。交差しているようで、交わっていないものなのです。

見上げるような人に比べれば、今の自分の「高さ」はあまりにも低く、あまりにも足りていない気がするかもしれません。その気持ちのコアにあるものは、次の一歩を踏み出すエネルギー源にはなってくれます。しかし、見上げることばかりをしていては、自分の足下がおろそかになることはたしかでしょう。そんな状態で、一歩を踏み出せばどうなるでしょうか。

上に向かうという気持ちのベクトルは保ちつつも、自分が登ってきた階段を忘れないようにすること。たとえわずかでも、鈍亀のような速度であっても、階段を登ってきている。極小ではあっても、何かを成し遂げてきている。それをたしかめるのはとても大切なことです。自分のグラフを確認するのです。


これは、半分ぐらいは希望を潰すお話です。

「あなたは何にでもなれる」
「あなたには無限の可能性がある」

ということを、言外に否定しています。自分は自分の階段を登るしかないのです。しかも、自分のペースで。どこにたどり着けるかは、非常に限られたものとなってしまうでしょう。

ただし、階段の段そのものは、あらかじめ準備されているわけではありません。自分でよっこらせと積んでいくものです。あるいは、いくつか提示される選択肢から、「これにする」と決めるものです。方向性そのものは、固定されてはいません。

だから、一つひとつ階段を登っていった先には、想像もしないような風景が広がっていることがありえます。

それが、残り半分の希望です。

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