のきばトーク第19回のテーマは「タスク管理と効率化」でした。
で、放送を終えてからもずっと「効率化」について考えていました。
自分にとって効率化とは何だろうか、と。
突き詰められない効率化
純粋に考えて、何かを効率化することは嫌いではありません。処理の自動化スクリプトを書いたりもしますし、万年筆ではなく、テキストエディタで文章を書いているのも、方向性的には効率化ではあるでしょう。
しかしながら、それを真摯に追求しているかというと、微妙なのです。
たとえば、日本語変換ソフトにはATOKを使っていますが、だからといってスペニットソフトは使っていないのです。
たとえば、メルマガには全体のテンプレートがありますが、個々の連載にはそれがありません。
「効率化」という視点に立てば、これは不合理なことです。賢い日本語変換ソフトを使ってキーボード入力の時間短縮を図るなら、スペニットソフトでさらなる時間短縮を求めるべきでしょう。メルマガ作成にかかる時間を、テンプレートによって短縮するならば、いっそそれぞれの記事もテンプレート的に処理できた方がスマートなはずです。
しかし、私はそれを求めていません。これではとても「効率化している」とは言えないでしょう。
効率の計算式
「効率化」という言葉を聞くと、「単位時間当たりの産出物を増やす」というイメージが出てきます。同じ時間を使いながら、より多くの成果物を生み出せるようになれば、それは効率化できたと言えるでしょう。
つまり、その計量には割り算が伴います。成果物の量を単位時間で割ってスケールを整え、その上で「効率化できているかどうか」を測定するわけです。
私はどうも、この考え方に違和感があるようです。第一に、そこには質がまったく考慮されていないところ。第二に、成果物が増えたとしてどうなるのかの視点も欠けているところ。この二つです。
たとえどのようなものであれ、増えたら増えた分だけのメリットが返ってくるならば、「効率化戦略」は概ね正しいでしょう。しかし、現実を考えればそれはあまりにも単純すぎる考え方です。
効率化の基準
もう一つ、「効率化」を追求していくと、最終的に出てくるのは「無駄を無くす」という考え方です。無駄なものがあれば、効率を阻害するのですから、これは当然の帰結でしょう。
でも、無駄って何でしょうか。いや、そういう哲学的な問いではなく、無駄を測るための基準は何なのか、という実際的な問いです。少なくとも、これがあやふやであれば効率化の追求は頓挫します。よって、どこかでそれを定めることになるわけですが、それって本当に正しいのか、という疑問がついて回ります。だって、人間の認識なんて偏りだらけなのですから。
この、「効率化の追求→無駄を無くす」という一連の手続き的な流れに、私は危うさを感じています。それは多様性をそぎ落とし、リスクに対するショックアブゾーバーを削り取る行為です。そして、その認識の裏側には、人生や仕事をあたかも完璧にコントロールしうるものだと捉えてしまう幻想が潜んでいます。これが一番危ういのです。
しかしながら、この流れはある意味で必然的な帰結です。
どういうことかというと、「効率化の追求」の過程すら「効率化」してしまうからこういうことになるのです。「効率化するための過程」すら「効率化」すれば、出てくるのはただただ単純な、線形で脆さを含む結果しかありません。
おそらく、このメタ的な適用は、「効率化」に限らず、危ういものを生み出してしまう行為なのでしょう。
さいご
ということを考えてみると、自分が志しているのは「最適化」だということに気がつきました。自分の時間や認知資源の使い方を最適化する。それが、私が目指しているところです。結果的に、それが「効率」につながることはありますが、それはおまけみたいなものです。
でもって、私はどうでもいいことについては、「最適化」の考えを適用しません。何の生産性もないゲームにお金を使いますし、こうしてほとんど儲からないブログに毎日1時間も「浪費」しています。でも、それはそれとして仕事もしていますし、それなりの精神的バランスを持って毎日を送れています。
つまり、最適化しないことがあることもまた一つの最適化の在り方なのでしょう。はたして、これはメタ的なのかどうかは難しい問題ですが。