4-僕らの生存戦略

背理の思考が縛るもの

花村太郎さんの『思考のための文章読本』には、10個の「思考の方法」が紹介されていて、そのうちの一つに「特異点の思考」があります。極端な状況を設定し、そこから思考を展開していく思考法です。

思考のための文章読本 (ちくま学芸文庫)

そのような思考法の中には「背理の思考」も含まれていて、ようするにそれは背理法なわけですが、この本はそこで留まらず、「背理の思考」を「命令」と結びつけることで論理的倫理が持つ暴力性を解き明かしています。

まっさきに例としてあげられているのは、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』です。

ホッブズは、人の「自然状態」という特異な状況を想定し、そのような状態では人々は必然的に戦争状態(万人の万人に対する闘争)に突入してしまうから、「平和の協定」というものはどうしても必要になってくる、と論理立てて語ったわけですが、ここに「背理」と「命令」を見て取ることができます。

最初に「自然状態」を仮定し、そのまま進んだら破綻することを示して、その「自然状態」を糾弾し、代わりに社会契約の必要性を説いたわけです。背理法と枠組みは同じですね。そしてここには「〜〜になりたくないのなら、××せよ」という命令が裏側に隠されています。

理性だとか論理だとかいうものはこのように、死にたくなかったら(こうせよ)、自由でいたかったら(こうせよ)というように、かなり脅迫的・暴力的な要素を隠し持っていることに気づけば、この背理の思考の西欧的形態の極限を知ったことになる。

ホッブスが用いたような思考の特徴は、極めて特異的な状況を描写することです。それは論理面においてよりも、レトリックとして私たちの心に深く影を落とします。

「万人の万人に対する闘争! そりゃまずい、ぜひとも避けなければ。社会契約を今すぐ結ぼう! 反対する奴は皆殺しだ!」

もちろん社会契約は必要でしょう。しかし、そのレトリックがあまりにも強烈な勢いを持っているがゆえに、「はて、他に可能性はないのだろうか」という熟考を妨げてしまう可能性はあるかもしれません。もしそうならば、それは暴力的と言っていいでしょう。相手の思考を沈黙させるならば、それがどれだけ紳士的に振る舞っていようとも、その行為は暴力的なのです。

ぼくらの身のまわりにも、未来の幸福(目的)のために、現在の苦痛をしのび努力せよ(手段)、とする命令文は満ちみちている。その背後には、もしそうしなかったらこんなマイナスの結果をもたらすのだという背理法の理論がつねにひかえている。

「未来の幸福のために、○○をせよ」

という言説は、もちろん「○○しなければ、幸福にはなれない」という背理の思考が潜んでいます。そしてこれもまた、暴力的なのです。

問題があるのは、個々の「○○する」という行為ではありません。それぞれの行為はたしかにやった方が何かしらのメリットはあるでしょう。だから、その部分については欺瞞ではないのです。危ういのは、「○○しなければ、幸福にはなれない」という脅迫的な思考の方です。

この思考には、幸福に至るための道が一本しか敷かれていません。本当にそんなことがありうるのでしょうか。少なくとも一度そう問うてみるだけの価値はあるでしょう。


背理の思考は、きっぱりとした拒絶を伴います。「Aに至るには、Bしなければいけない」。このような思考には、中間地点やグラデーションといったものが一切存在しません。モノクロの思考です。

「○○」をすれば、たしかに幸福に近づけるのかもしれません。でも、「○○」以外にも可能性はあるでしょう。しかし、どのように柔らかく表現されていても、「未来の幸福のために、○○をせよ」という言説には、その他の可能性を黙殺する思考が含まれています。それは、極めて暴力的で命令的なものなのです。

そして、非常に残念ながらある種のノウハウ本を売り込むためには、この語法が適しているのです。

別にそれぞれのノウハウが悪い(無用)なわけではありません。それがどれだけ薄っぺらく汎用性に欠け、実用性が皆無であっても、100円で回したガチャガチャぐらいの価値はあるでしょう。しかし、そのノウハウを売り出すために使われた「未来の幸福のために、○○をせよ」という宣伝文句は、はっきりと有害です。人の思考を狭い路地に追いやってしまう可能性が潜んでいます。

というわけで、「未来の幸福のために、○○をせよ」に類する言説を見かけたら、「ああ、背理の思考ね」とワンクッション置いて捉えておくのが良さそうです。少なくともそれで、グラデーションは確保できるでしょう。

もしかしたら、これも背理の思考なのかもしれませんが。

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