「自分のペースで進もう」というかけ声がある。よく考えると不思議な言葉だ。
だって、人は自分のペースでしか進めないはずではないか。いや、自分が進むそのペースを「自分のペース」と呼ぶのだ。
自分が5のペースで進んでいたとする。
そのとき、隣の人が6のペースで進んでいたとしよう。
それを見て、ちょっと試しに6のペースに変えた。
そうしたら、問題なく6のペースで進めることがわかった。
さて、「自分のペース」は、5なのか、それとも6なのか。あるいはそれ以上? それ以下?
継続的
たいてい上記の言葉は、「焦らないで、自分のペースで進みましょう」という具合に使われる。焦ったペース≠自分のペース、というわけだ。
それが否定ぎみに扱われるのは、継続性・持続性がないからだろう。そもそも「ペース」という概念自体、平均的なものを含んでる。要素が一つしかないものの平均は、平均なのかもしれないが、そのもののデータと変わりがない。ある程度数が揃って、意味が出てくるのだ。ペースという考え方も、一回きりの現象についてではなく、もう少し長いスパンを見据えたものだと言えるだろう。
だから、「自分のペース」は、継続可能なペースということになる。あるいは、自分が継続可能だと思うペース。ここにやっかいなトリックがある。
思っていること
自分が継続可能だと思うペースは、本当に継続可能なペースとイコールであるかの保証はどこにもない。自分がそう勘違いしているだけの可能性がある。
もっと早く進めるのかもしれないし、もっと遅く進まないといけないのかもしれない。6のペースでずっと進んでいたら、3年後ぐらいに急に無理がやってくる、ということもありうるのだ。そのときはじめて、6は自分のペースではなかったことが明らかとなる。つまり、帰納的にしかわからないのだ。
ここは結構大切なところである。
帰納的な推論なので、データが多ければ多いほど、その精度は上がっていく。5年のスパンで捉えれば、3年目で無理がやってくるペースは無理だとわかる。それが1年ではわからない。10年も蓄積すれば、そうとうな精度になっているだろう。が、しかし、それは推論でしかない。主人に肥え太らされたニワトリが、今日もご飯をたっぷりもらえると勘違いしているところに、バッサリ首を落とされる日がやってくる。
つまりは、こうだ。
人生を重ねていくうちに、自分のペースについてのデータはいろいろ集まってくる。そしてそれは蓄積すれば、本当の(これが何を意味するかはさておき)ペースに近似していくだろう。でも、それは近似でしかない。
人は年を重ねて変わっていく。バイオリズムにも波がある。どれだけ自分についてわかったつもりになっても、それは帰納的推論の域を出ない。何かまだぜんぜんわかっていないことがあるかもしれないのだ。
その点についての警戒だけは、ゆめゆめ忘れないようにしたい。
さいごに
以上のような話を一周ぐるっと回った上で、やっぱり結論は、
「自分のペースで進もう」
ということになる。いや、そもそも人は自分のペースでしか進めないのだ。つまり、こう言い換えよう。
「自分のペースがどのくらいなのか把握するようにつとめよう」
大切なことだ。思い込みはたくさんあるし、入ってくる情報はそれをさらに惑わせる。案外、見失いやすいものなのかもしれない。
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