BlogArts

記事広告はブログの未来なのか

まずは出発点の模索です。

「良いコンテンツを出す人に、きちんと利益が還元されて欲しい」

どうでしょうか。概ね同意されるでしょうか。

だとすれば、記事広告の仕組みはたいへん良いものに思えます。それを一つのブログの未来と位置づけたくもなってきます。

でも、少し立ち止まって考えてみましょう。なぜなら、アドセンスだって仕組みだけみたらたいへん良いものだからです。

ちょっとした変化

最近は、アドセンスで一儲けするのも難しくなっているらしく、さらにPV至上主義のトリガーとしても批判されている仕組みではありますが、根本的な原理はとても素晴らしいものです。

ウェブの出発点は、書き手が書き、それを読み手が読む、というものでした。どこにでもある、ごくありふれた風景です。アドセンスはここに数滴の変化を加えました。劇薬の変化です。

書き手が書き、広告が表示され、読み手が読む。すると、書き手に利益が発生する可能性が生まれる。しかも、読み手は一銭も支払う必要はない。なんというパラダイスでしょうか。一見したところ、誰も損していません。しかし、すべての楽園がそうであるように、それは「一見」でしかありません。

アドセンスが当たり前になると、広告を表示させるために書く、という書き手が増えてきました。それも爆発的に増えてきました。さらに、その書き手はメッセージを伝えたいわけでも、日常を綴りたいわけでもなく、単に表示されて欲しい、クリックされて欲しいと願っているだけです。良い悪いではなく、もともと存在していた系の中では異質な存在なのです。

その中でも、特に異質な存在は、あえて煽る文章を書いたり、嘘でも気にせずに(むしろ得意げに)情報を流したりといったことを平然と行います。書き手が読み手に文章をおくることが主要な動機ではないのですから、そうなるのは必然でもあるでしょう。釈迦と詐欺師に倫理を説くのは無駄なのです。

もちろん功績はきちんと評価すべきでしょう。アドセンスによって、良き書き手に利益が生まれ、またその動機付けによって新しい書き手がウェブに参画した面はあると思います。しかし、それ以上に、異質な存在が一つの系になだれ込んできたことで、相対的にその功績は小さくなっています。

評価の指標

結局それは、アドセンスが「広告」であり、その効果をPVという指標を使って測定しているからこそ起こることなのでしょう。あらゆる指標(評価軸)は、その系の中に発生する行動を傾向付けます。

面白いのは、ウェブという新しいメディアの発展においてPVが盛んに喧伝される構図は、大手の新聞が発行部数を(水増ししてまでも)誇る点とまったく変わっていない点です。それが広告料に影響するからなのでしょう。逆に言えば、広告に依存したメディアは、使う媒体が何であれ、似たような構図に落ち着いてしまう、ということなのかもしれません。

注目したいのは、この点です。つまり、記事広告なるものが促進されたとして、それはこの構図から抜け出るものになるのかどうか、という点です。変わらないのであれば、歴史が繰り返されるだけでしょう。

Win-Win-Win

シンプルな状況から考えてみましょう。

何かに秀でたブロガーがいたとします。そうですね、たとえば情報カードだとしましょう。その情報カードに卓越したブロガーが、どこかのメーカーから「情報カードの新商品に関して、記事広告を書いてもらえませんか」と依頼されたとします。それは新商品のレビューなのかもしれませんし、何かの面白企画(「情報カードでパラパラ漫画を作ってみた!」)なのかもしれません。どちらにせよ、そのコンテンツは面白いものに仕上がるでしょう。
※あるいは仕上がらないのかもしれませんが、話がややこしくなるので、ここではその記事のクオリティは十分に高いと想定しておきます。

そうすれば、メーカーはプロモーションになり、読み手は面白い記事が楽しめ、書き手はそれで利益が得られる。うん、これは素晴らしい関係です。ここまではまったく問題ありません。

では、これを縦と横に拡大していけばどうなるでしょうか。縦とは、そのブロガーが一年に何個そうした記事広告を書くのか、という話で、横とは、そうしたブロガーがどれだけ増えるのか、という話です。

75%ぐらいのアウトプット

仮に、年間を通して少なくない依頼がそのブロガーにやって来たとします。それらすべてについて彼は興味を持たないかもしれません。完全に興味が0の案件は断るでしょうが、「これなら書けるかも」と思ったものは書くかもしれません。そうした記事は、せいぜい70%か80%程度の面白さとなってしまうでしょう。中にはいかにも苦しい感じの記事もあるかもしれません。

もちろん、書き手が収益を得るために、そうした苦しい感じの記事を出すこと自体はぜんぜん悪いことではありません。読み手も、多少事情を察して、ああなるほどね、とスルーする心の広さは持っておきたいところです。

しかし、何かを書けば、別の何かを書く時間が失われます。もし、彼が記事広告に関与していなければ、生まれていたはずのいくつかの(そう少なくはない)100%の記事が書かれなくなってしまうのです。

ここでそのブロガーを、書くことを通して生計を立てたいと望んでいる主体だと想定するならば、そのようなトレードオフは当然と言えるでしょう。仕事としてものを書くことは、自分の書きたいことだけを書くこととイコールにはなりません。依頼者がいてこその仕事です。

しかし、そのブロガーを、情報社会における市民として捉えた場合、その記事の偏り方はあまり望ましいとは言えません。たしかに、メーカーも、読み手も、書き手もそれぞれWinではありますが、それとは違ったWinの構図もありえるはずです。そしてそれがこれまでのマスメディアが提供できなかったWinであるはずです。

マッチング

今度は、そうしたブロガーの数が増えてきた場合を考えてみましょう。

まず問題となるのは、企業やメーカーがそうしたブロガーをどのようにして見つけるのか、という点です。数が少なければ、一つひとつ読み込んでいったり、周りの評価を確認する作業もとれるでしょうが、数が多くなれば対応できません。となると、わかりやすい指標で決定される場面が増えてくるはずです。それこそ、フォロワー数やPV数で。

もちろん、その道はこれまで歩んできた道であり、新しい構図にはまずならないでしょう。

同様の問題として、そうした広告の効果をどのように図るのか、という点もあります。とても真摯で優れた書き手なのだけれども、一日のアクセス数が50しかない、というブロガーの記事広告をどのように評価するか、もっと言えばそのブロガーに依頼がいくのかのかどうか。
※優れた書き手ならアクセス数を持っているはず、というのは単なる幻想です。

いかないならば、結局は同じ話をぐるっと一周回すだけです。

さいごに

記事広告は、限定的に見れば素晴らしいものです。しかし、限定的に見ればアドセンスや他のバナー広告だって素晴らしいものです。

それがあまりにも素晴らしすぎたため、それまでとは違った動機付けを生みだした、という点は忘れないようにしたいところです。記事広告でも同じことが起こらないとも言えませんし、単にPRをつけたくないから、という理由で記事広告がもてはやされるなら、今よりもひどい状況が待っていることすらありえます。

結局のところ、広告は、商業主体が金銭の提供主です。でもって、そこでは測定できる「効果」がないといけません。お金をドブに捨てるような行為は、商業主体ではまったく不合理だからです。その効果の測定が、単純な指標・これまでの指標で行われている限り、これまでの構図がかわることはないでしょう。

とは言え、です。

「良いコンテンツを出す人に、きちんと利益が還元されて欲しい」

と思う裏側で、「でも、自分はお金を払うつもりはない」という気持ちがあるならば、結局は広告に頼るしかない、というのも一つの真実です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です