「メモれよ、さらばメモられん」
という言葉を残したのは古代ギリシャの哲学者サンデルスであり、毎日必死にメモを取っていれば、いつかは他の人に自分の発言がメモされるような人間になるという意味が込められたありがたい言葉である。
以上はまったくの嘘なのだが(すいません)、知的生産活動においてメモは欠かせない行為であることは間違いない。それは、大雨の日の傘ようなものである。なくてもなんとかはなる。だが、そうとうに厳しい。
よって、このメモというやつといかに付き合っていくのかが、知的生産の技術では肝要となる。力技で解決できないことに取り組むのが「技術」なのであるから、これはまっとうであろう。
さて、以下の記事を読んだ。
メモがとれる人間にあこがれて~文具自分紀行・その3 | inspi
ヨシムラマリさんによるメモの考察だ。
便宜上、ここでは「突発的に書く」ものを「メモ」、「計画的に書く」ものを「ノート」と呼ぶ。「突発的」というのは、「いつ」「どこで」それを書かなければならない状態になるか、予測できないということだ。歩きながら降ってきたアイディア、急に上司に呼び止められて頼まれた用事などがこれにあたる。逆に会議の議事録や、考えをまとめるときのように「書こうと思って書く」ものが「ノート」である。
メモとノートが区別されている。分ける基準は、作成時の状況であり、緊急性の有無という言い方もできるだろう。
自分のことを振り返ってみると、たしかにメモと呼べるものは、緊急的に作成されることが多い。閃きは突然訪れるし、そうして訪れた閃きは瞬く間に消え去ってしまう。だから、即座にその場でメモを取らなければならない。閃きの予測は困難であり、そのメモはいつだって緊急的に作成される。
で、そうではない記録がノートというわけだ。
これはたしかにその通りに思えるが、一度私の定義を確認してから、もう一回り深めてみるとしよう。
メモとノート
私のメモとノートの定義は、作成した情報の利用に着目する。簡単に言えば、一時性を帯びたものがメモであり、常駐性を帯びたものがノートである。具体例で考えよう。
電話をしている。「これから言う口座に振り込んでください」と言われる。そんなものメールで送って来いよ、と思いながら、あなたは手近な紙にでもその口座番号を書き留める。これがメモだ。そのメモは、振込用紙にきちんと番号を入力した瞬間にお役御免と成る。この「お役御免」が一度目の情報の利用のタイミングと非常に近しいところにあるものをメモと呼ぶ。
同じ口座番号でも、それが顧客リストの一部をなすものであればどうか。それはたぶんデータベース的なものに記録されるであろうし、その情報が実際にどれだけの回数参照されるかはわからないが、それでも前提としては何度も利用されることが想定されている。そして、何かしらの理由でその口座番号がデータベースから削除されることもありうるが、前提としてその情報はデータベースがある限り存続し続けることになっている。これがノート的な情報だ。
記憶と記録
メモやノートは記録である。そして、記録は記憶をサポートするために作られる。
それを考えれば、(私の定義では)メモは短期記憶をサポートするためのものであり、ノートは長期記憶をサポートするためのものとなる。つまり、筆算するときの計算式はメモであり、それをまとめた論文の作成はノートである。
この視点に立つと、ノートもさらに細分化できる。それは長期記憶の細分化と呼応する。
意味記憶は、My辞書でありセルフウィキペディアだ。虎の巻という言い方もできる。自分のノートに「データベース」を作っている人も多いだろう。論文だってそうだし、その他細かい情報を含めた「意味」を規定するものがここにあたる。
エピソード記憶は、ライフログだ。もちろん、そこには日記も含まれている。そして、手続き記憶はチェックリストであり、展望的記憶はいわゆるスケジューラーである。
これらが「ノート」というものを構成する。
ちなみに自分の「思索」を書き留めたものは、意味記憶とエピソード記憶の混合と言えるだろう。つまり自伝的記憶というわけだ。
二軸の探索
さて、ここでメモとノートに関して二つの定義が生まれた。これで二軸が作れるだろうか。つまり、緊急性・計画性と一時性・常駐性でマトリックスを作れるかどうか、ということだ。
緊急性かつ一時性のある情報→電話口のメモ
計画性かつ常駐性のある情報→論文
これはいい。では、他はどうだろう。
緊急性かつ常駐性のある情報→?
計画性かつ一時性のある情報→?
たとえばモーツァルトか誰かは曲の全体像が一瞬で頭に浮かんで、それを楽譜の上に書き写すだけだったと言う。これは「緊急性かつ常駐性のある情報」だと言えるだろう。万人向けとは言えそうにないが、そういう行為を必要とする人がいることは一応想定できる。
また電話口で聞いた口座番号をそのまま直接データベースに入力することもある。これも「緊急性かつ常駐性のある情報」と言えるかもしれないが、そのような行為が行われるときは、たいてい「おそらくそういう状況が発生するであろう」ことが業務的に規定されているものであり、言い換えれば想定内(計画的)であるとも言える。急いで書き留めなければならない状況ではあるが、「まさか、そんなタイミングで口座番号を言われるとは思っていなかった」というシチュエーションは少ないだろう。
むしろ、「まさか、そんなタイミングで口座番号を言われるとは思っていなかった」場合は、どこかの紙に一時的に書き留めておき、それを改めてデータベースに入力し直すことが多いのではないだろうか。つまり、メモ→ノートの昇華である。記憶の比喩を続ければ、短期記憶が長期記憶に変化したわけだ。
以上のように考えると、「緊急性かつ常駐性のある情報」は概念的に想定しうるが、現実的に発生することは少ないかもしれない。
さらに、「計画性かつ一時性のある情報」となるとさらにやっかいだ。一体誰がそんなことを行うのだろうか。もちろん、忘年会でやる一発ギャグを必死に考える、ということはあるだろうが、その一発ギャグですら、コンテンツの消費的には一時的に扱われるが、来年再来年と同じことができるし、それを見た人がモノマネして別の宴会でやるかもしれない。それは常駐的な情報なのだ。
結婚式のスピーチや講演なども、たしかにそれは「たった一回しか使われない」ものであるが、文字起こしされたり、録音されたり、誰かに引用されたりすることは十分ありうる。その意味で常駐的な情報と言える。
そう考えると、「計画性かつ一時性のある情報」を見出すのはかなり難しい。つまり、緊急性・計画性と一時性・常駐性は完全に独立したパラメータではないのだろう。往々にして、一時性のある情報は緊急的に発生するし、常駐性のある情報は計画的に作成される。そういう傾向がありそうだ。同じコインを違う角度から見ているに過ぎないとも言える。
さいごに
今回はメモとノートの定義周りについて考えてみた。
一見バカらしいかもしれないが、私たちは大人になるまで「メモとは何か?」「ノートとは何か?」といった定義について誰にも教わることはない。というか、大人になっても教わることはない。その機能や性質について無知なままで、知的生産活動に従事させられるのが我々の生きている社会なのである。これは結構辛いことだ。
今回は定義周りを押さえたので、次回はそれを踏まえてそれぞれの運用をもう少し掘り下げたい。
たぶん、つづくと思う。
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