“過去を認識するのは常に現在であり、未来を夢見るのもまた常に現在である。”
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ノートの使われ方にもいろいろとあります。私のニーモシネは、現在進行形な使われ方です。未来形でも、過去形でもないということです。ゆっくりと動くためのノートです。
ふと、「思考のホームポジション」という言葉が浮かんできた。なんとなく面白そうな概念だ。それに展開しそうな気もする。ちょっとだけ、心がモシャモシャしてきた。
私はそれをノートに書いた。そう、まさにこれが「思考のホームポジション」だと言わんばかりに。
場所というツール
考えるための場所をお持ちだろうか。ある意味で物理的な場所であり、ある意味で精神的な場所でもある。
それは馴染みの大学ノートかもしれない。あるいは革張りの高級ノートだっていい。Evernoteの新規ノートでも、アウトライナーの新規項目でもいい。必要ならコピー用紙を横向けに置いてもいいし、大きめの情報カードを押し入れから引っ張り出してきてもいいだろう。
なんでもいいのだ。ともかく、心がモシャモシャしてきたときに、何か動きがあったときに、書き留める「お馴染みの場所」をお持ちだろうか。それはツール(道具)ということであり、自分の精神の出現地点でもある。
ホームであるということ
それはたぶん同じ場所であることが望ましい。
それはたぶんすぐにアクセスできる場所であることが望ましい。
使い方に習熟していないと、モシャモシャは捉えきれないし、遠慮があるなら、モシャモシャは逃げていく。「いえ、別に私のことなど気になさらないでください。私はしがないモシャモシャですので」
ホームが必要だ。馴染みの、どこに何があるかわかっている、操作方法で悩まないツールが必要だ。なんの認知的抵抗感もなく、すっと引き出せるツール。
そこに、今の自分の考えを書き記す。
ただ、それだけのこと。それが世界を変える。
書くこと
〈思い〉は、強くなるかもしれない。しかし、それは常に同じような形をしている。構造的組み換えによる、新たな概念の獲得──なんてこととは、8年ぶりに再会したほとんど会話を交わしたことのない親戚のこどもへの心理的距離くらいは間が空いている。書くことが、そこに変化を与えるのだ。
書くことは、固定化を促す。無限の可能性を有限の可能性へと変転させる。言うまでもなく、無限の可能性とは何も無いことを意味している。
書くことは、認知を促す。そうか、自分はこういうことを考えていたのだな、と突きつける。
書くことは、相対化をもたらす。かつて自分の一部であったものが、今の自分の視点で眺められる。思いを相対化するということは、自分を相対化するということである。そこから〈考え〉というものは生まれてくる。
さいごに
書くということは、記録して残すということであり、記録して手放すということである。このアンビバレントな関係は、〈自分〉という存在の多重性から発生する。
意識は連続体であるがゆえに、それは常に一つである。意識とは世界認知における中心なのだ。書くことは、それを揺さぶる。世界が変わるとはそのような意味合いにおいてである。
どんな場所でもいい。思考のホームポジションを持ってみてはいかがだろうか。頭だけの世界とは、少し違った場所にたどり着けるかもしれない。
しかし、ホームを作るのは、案外大変でもある。ハウスを建てるのは簡単でも、ホームを作るのはちょっとした手間と時間がかかる。愛情すらも必要かもしれない。
でもまずは、手近にツールを置き、そこにいろいろ書きつけることから始まるだろう。今の自分の、ちょっとした思いなんかを。