『勉強の哲学』のノート術 その1

『勉強の哲学』の第四章「勉強を有限化する技術」は、具体的なノウハウが提示される章であり、その中に「ノート術──勉強のタイムライン」という項目がある。冒頭はこうだ。

勉強の哲学 来たるべきバカのために (文春e-book)

勉強とは、これまでの生活に縛られないで自由に考える時間と空間を、これまでの生活のなかにつくることです。勉強を始めることで、生活が二重になる。別の「タイムライン」ができる。これまでの生活から「浮いて」存在するような、勉強のタイムラインです。

「これまでの生活に縛られないで自由に考える時間と空間を、これまでの生活のなかにつくること」とは、一昔前なら「知的生活」と呼んでいた営為であろう。たしかにそれは大切なことである。そして、ノートとは、その時間と空間を具現化させるためのツールだと言う。

逆に言って、勉強用のノートとは、生活の別のタイムラインそのものであり、自分の新たな可能性を考えるための特別な場所なのだ、という意識をもってほしい。

これについて少し考えたい。

私は今、ショッピングモールのフードコートでこの文章を書いている。つまり私は、ショッピングモールのフードコートに存在する、ということだ。しかし、そもそもある人間がショッピングモールのフードコートに存在するとはどういうことだろうか。

私の目にはいくつかのお店が映っている、人の話し声が聞こえるし、ラーメン屋さんから豚骨っぽい香りも漂ってくる。私がショッピングモールのフードコートにいるとき、私はそこからさまざまな知覚刺激を受け取る。その場所に相応しい情報を受け取るとき、私はその場所にいると実感できる。私の認識の中で構築される「世界」は、情報が構築している。

「これまでの生活」を構築するものも同様だ。それは「これまでの生活」が与えてくる情報によって構築される。何を見聞きするかが、その世界を(私の中に)作り上げるのだ。読書が(現実)逃避的である、というのもその意味においてである。熱中する読書では、現実世界が与えてくる知覚については鈍感になり、むしろ文字情報から構成されるイメージが、(私の中に)世界を構築する。

そのような読書における「本」と、勉強ノートは、まったく同一の存在である。単にそれが自分以外の著者によって書かれているのか、自分の手で書かれているのかの違いしかない。

当面の生活においてまったく必要がないことについて書くノートを持つ。そのノートに綴られる情報は、「これまでの生活」が与えてくる情報とはまったく異質である。遊離していると言ってもよい。その遊離した情報空間に接しているとき、(私の中の)世界は別の位相へと移行する。現実感覚がズレるのだ。

「これまでの生活に縛られないで自由に考える時間と空間」、つまり「これまでの生活」とズレた時間と空間は、そのようにして確立される。むしろ、そのようにしか確立されない。(ノートにおいて構築されるような)情報空間を新たに作り上げることが、自由に考える時間と空間を確立するために必要なことであり、世界を新たに作り替える(あるいは生活に二重性をもたらす)ための方法でもある。

ノートを書くことは(特にある種の事柄について書くことは)、単に情報を記録することだけを意味しない。それは(私の中の)世界の変化を促す行為であり、逆向きに言えば、自分を変身させる行為である。そして同じようなことは、ブログを書くことにも、SNSに投稿することにも潜んでいる。

自らが接する情報空間をいかに変質させるか。それが勉強(あるいは知的生活)において考えるべき課題である。しかも、「これまでの生活」から遊離しすぎない(逃避しすぎない)ようにすることも必要である。

次回:『勉強の哲学』のノート術 その2

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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