マクルーハンが言うように、テクノロジーやメディアが人間の身体の「拡張」であるならば、僕らはもう巨人のようになってしまった。
ゴリアテとダビデ。
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インターネットに接続しているパソコンに、僕たちが接続しているとき、僕らの意識領域は限りなく拡張される。素晴らしいことだ。しかし、必ずしも大が小を兼ねるとは限らない。巨人は足元が疎かになるのが定番である。何かを手にすれば、何かを失う。
拡張の欠損を、さらなる拡張で補う、というアプローチもあるのかもしれない。しかし、その際限ない堂々巡りではなく、単に拡張を捨てたって構わないだろう。パソコンの電源を落とすように、紙でペンに向き合うように。
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何も完全に拒絶する必要はない。そんな極端なところに着地点はない。一時的に、拡張から遠ざかってみる。等身大の大きさに戻ってみる。マインドをフルネスにしなくなって構わない。一時的に電波をオフにするだけでいい。
≪行ったり来たり≫するのだ。
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もしかしたら、そこには儀式が必要になるかもしれない。それくらい拡張は日常に溶け込み、我々の意識に組み込まれている。巨人は、巨人である自覚を持たないのだ。
与圧室(減圧室)は、≪行ったり来たり≫のための装置であり、その操作は入室(退室)のための儀式なのである。
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部屋をダイレクトに繋げば、平衡が起こり、同質化してしまう。≪行ったり来たり≫はもはや不可能だ。
儀式は、異質なものを結び合わせ、その行き来を可能にする。
ハレとケ。
同質なんて、クソくらえである。
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拡張は、拡散を呼び込む。行き着くのは、個=全体だろう。世界中の人々と意識を交流できれば、なんと素晴らしい世界になるであろうか。
ユートピア=ディストピア
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現代は、個が個であれる、最後の時代なのかもしれない。