ある種のブロガーの集いの場としての「かーそる」

以下の記事を読みました。

かーそる 2017年7月号 特集『書く道具と 書く動機』を読んで: tadachi-net 出張所

先日発売した「かーそる 2017年7月号」の感想を頂いております。最初はライトなノリで始まっているのに、途中からグイグイ引き込まれてしまい、あれ、これ何かに似ている、と考えていたら、そうだこれかーそるの記事読んでいるときの感じに似ている、ということに気がつきました。

嬉しい発見と体験です。ありがとうございます。

で、今回は上の記事で書かれていることを踏まえて、いくつか「かーそる」について書いてみます。

日和る? 否、断じて否!

これは文房具クラスターやデジタルガジェットをこよなく愛するクラスターの人達が感心を持つテーマです.そんなわけで,本文を読む前に感じたことを正直に書くと,『日和ったな!シャァ!』という思いです.読者の裾野を広げるために,ある意味無難な路線に走ったのだと感じました.

これは半分当たっています。やはり、キャッチーさというかフック(釣り針)というか、何かそういったものがないと手にとってもらうのは難しいだろうな、という思いも(商売人的には)あるわけです。でも、私は変わったことをせずにはいられない人間であり、そういう人間が編集長をやっているのですから、もちろん「かーそる」が日和った内容になることなんて、これはないわけです。というか、だからこそわざわざ新しい雑誌を立ち上げているわけですし。

で、もちろん、「執筆陣が使っているガジェット紹介」のようなコーナーを作ることも念頭にはありました。日経ビ○ネ○ア○シ○みたいなノリですね。でも、皆さんが書いてくれた原稿を読んでみて思ったんです。「ああ、もう、これで十分面白い」と。特にHibikiさんのポメラの記事のパンチは強烈で、あの記事の存在が、「無難な路線」へ進むことへの拒否(強く言えば拒絶)を生み出していたのではないかとすら思います。今のところ、一番多く反応を頂いているのもポメラの記事なので、私の感覚はそんなに間違っていないでしょう。

で、そういう記事が出てくる土壌を整えることが私の仕事であり、また「かーそる」という雑誌(あるいは場)の役割ではないかなと思います。

一つひとつの文章は何か新しいことを言うために生み出されるものです。それはメディアが持つ宿命みたいなものです。だから、新しい雑誌を作ることも、これまでの他の雑誌が言っていなかったこと言うために、やっていなかったことをやるために、行われるものだと思います。

だから、たぶんこれからも「かーそる」で無難な(つまり平凡な)内容が提出されることはないでしょう。でも、看板(≒特集企画)自体にはフックが仕込まれている、ということはたびたびあると思います。マニアックであることを開き直っては、閉じてしまいますので。

雑誌という形

これで雑誌を作るという経験は二回目となるのですが、「そうか、雑誌を作るとはこういうことなんだ」ということを徐々に感じています。もしかしたらそれはこれまでの雑誌制作者が感じてきたものとは異質なのかもしれませんが(なにせかーそるは異質です)、比べようがないので確かめようもありません。でも、自分の体験として、「ブログを書くこと、メルマガを書くこと、書籍を執筆すること」とは違う何かが、ここにはあると強く感じています。

まだちょっともやもやしていて、はっきりと言葉にはできないのですが、他人の目が入ることもそうですし、また「お金を頂く商品を作る」こともそうですし、「コンテンツが固定される」(≒終わりがある)こともそうかもしれません。その意味で、一番近いの書籍執筆なのですが、それよりももっとふんわりした感じ──適切に空気が入ったオムレツをイメージしてください──があります。

でも、まあ、とにかくこれは面白いです。独特の面白さがあります。

少なくとも私たち(つまりprojectかーそる)は、義務的に何かをする必要がいっさいないので、その面白さをできるだけ壊さないように進めていけたらと考えています。

書き手=読み手

で、冒頭に紹介した記事を読んで一番感じたのが、私たちには境界線というのがそもそも存在していないんだな、ということです。これも説明するのは難しいので、次のツイートをとっかかりにしましょう。

まず執筆陣は、皆一介のブロガー(あるいはそれに準ずる何か)です。その辺にいる市民さんです。それが集まって、コンテンツを世に送り出しているというのが「かーそる」です。ここに権威主義の面影は一切ありません。言い換えれば、自分たちを上に置き、読者を下に見るような構図は生まれません。簡単に言えば、雑誌に寄稿するような知識人、というような体裁がどこにもありませんし、また必要ともしていないのです(コンテンツの売上げを作るために、その構図が必要となる場合もあるでしょうが、そのことを批判しているわけではありませんので、あしからず)。

「かーそる」のメンバーは(広い意味で)ブロガーであり、他のメンバーを一読者として意識して書くということは、ようはブロガーを、つまり市民を意識して書く、ということです。でもって、当人もブロガーなのです。こんがらがってきましたね。でも、単純な話なのです。

“「かーそる」は執筆陣同士がお互いの読者でもあり、「かーそる」自体の読者でもある”

執筆陣は皆「かーそる」という雑誌を面白く読むでしょう。そしてその執筆陣は、その辺にいる一市民なのです。だから、別の場所にいる一市民にも面白く読める……というのは、いささか論理の飛躍が過ぎますが、でもこの「一市民」を、Tak.さんがインタビュー内(※)で言っていた「ある種のブロガー」に置き換えれば、話はもっとずっとスッキリします。
※「かーそる 2017年7月号」収録

「かーそる」は、「ある種のブロガー」が集まって作る雑誌であり、「ある種のブロガー」のための雑誌である。だからそこには境界線というのがはじめから存在していないのです。内側と外側、読み手と書き手は便宜的な線引きでしかありません。上の記事で評価して頂いている「かーそる」という雑誌の熱量も、開かれた表現も、読者を刺激する要素も、すべてその点で説明できます。変なたとえですが、リング上で行われる試合ではなく、路上で発生する喧嘩のようなものです。否応ない当事者性(親近感と言い換えてもよいでしょう)がそこには発生します。

私はわざわざ雑誌内で「書き手と読み手の境界線はない」と宣言しました。でも、そんな宣言はもともと必要なかったのかもしれません。内容を読めば、それはすぐにわかるような気がします。

さいごに

まだまだ十分に説明しきれてはいませんが、そもそも私自身が十全に理解していないのだから仕方ありません。とりあえずは、今後も実際に手を動かしながら、考え続けたいと思います。

とりあえず、今一つ感じていることは、実体としての「かーそる」のコンテンツの方向と、「かーそる的なもの」という概念については別々に考えられるのではないか、ということです。糸井重里さんがインターネットと「インターネット的」を分けたようにです。

でもって、「かーそる的なもの」がある種のロールモデルとして機能すれば、これはこれで嬉しいことです。

かーそる 2017年7月号
かーそる 2017年7月号

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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