多様性と「自分のゲーム」

たとえば、魔王を倒しに行くパーティーは、なるべく多様性があった方がよいでしょう。戦士ばかりだとゴースト系に苦労しますし、魔法使いばかりだと魔法が効かない相手をどうしようもありません。それぞれ違ったスキルが組み合わさることで、一人では為せないことができるようになります。

私たちが多様性について考えるとき、イメージするのは、おそらく上記のようなイメージでしょう。

しかし、武器屋や宿屋を経営するおっちゃんも、ヒソヒソ話のついでに魔族の秘密を教えてくれるおばちゃんも、魔王を倒すという目的において貢献をしてくれています。貢献の仕方は多様なのです。

そんなことを言えば、武器屋のおっちゃんが家に帰ったとき、暖かい料理を作って待ってくれているカミサン(たぶんこう呼んでいるはず)だって、間接的な貢献者です。道を作った人、町を作った人、町を守っている人、祈りを捧げている人。それらすべてが何かしらの寄与しています。

しかもです。本当の多様性というのは、なんら冒険に寄与していない人すらも受け入れるということであり、究極的に言えば敵方の存在すら受け入れる、ということです。さすがにそこまでいくと、若干アナーキーな感じがしてきますが、しかし、そういう射程のある話であることは間違いないでしょう。

私たちはついつい「自分の役割」ということを考えるときに、「パーティーに参加してモンスターを倒す」みたいなことを真っ先にイメージしがちです。もちろん、そういう役割を担う人は欠かせませんし、讃えられもするでしょう。しかし、それだけに限定してしまうと視野が狭くなります。それに、イス取りゲームが発生しがちな点も見逃せないでしょう。敗者多きゲームです。

これは別に、冒険者を目指すのが良いとか悪いとかの話ではありません。選択肢が十分に広いのかどうか、という話です。

はなから負けが決定しているゲームに、みすみす全額ベットする必要はないでしょう。だいたいそんなゲーム、楽しいはずがありません。

選択肢が広ければ、それなりに楽しいゲームができる可能性が生まれます。「自分のゲーム」ができるようになるのです。大切なのはたぶんそこでしょう。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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