なに、簡単なことです。アイデアパーソンになるためには、以下の三つを心がければOKです。
- アイデア技法(発想技法)を学ぶ
- 知識を蓄える
- 問題意識(主体者意識)を持つ
アイデア技法(発想技法)を学ぶ
発想とは、頭の動かし方です。その他のあらゆる「動かし方」と同じように、それを学ぶには「型」から入るのが良いでしょう。アイデア技法(発想技法)とはその「型」のことです。こうした「型」を紹介した本は、ごまんとあります。
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ただし、「型」についての知識を丸暗記すればOK、というものではありません。ゴルフのスイングしかり、お茶の立て方しかり、文章の書き方しかり、「型」を学ぶとは、その行動を実際に(それも繰り返し)行い、自分の身のうちにインストールすることを意味します。つまり、「身につける」のです。
アイデア技法を知るだけでは足りません。きちんとそれを使えるようになることが肝要です。でもって、何度もそれをやってみること以上に、助けになることはないでしょう。
知識を蓄える
技法は「型」でしかありません。それ自身が、「アイデア製造装置」ではないのです。では、アイデア製造装置は何かと言えば、あなたの脳です。あなたの脳に蓄えられている知識や情報が多いほど、そこから生まれるアイデアの可能性もまた大きくなっていきます。
よく、「子供の方が柔軟な発想をする。知識よりも考え方が重要だ」みたいな価値観がありますが、かといって、三歳児が核融合反応炉を発明したりはしないでしょう。基礎となる知識がないところに、応用が生まれてくることはありません。そもそもアイデアとは組み合わせの問題なので、素材が多いほど、生まれえるバリエーションが多くなるのは至極当然の帰結です。
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ただし、知識はある種の世界観・メンタルモデル・スキームとセットでインストールされることが多く、しかもそれは「既存の世界」に属するものなので、知識が増えても新しい発想が生まれないだけでなく、むしろそれを阻害していく力すら有していることがあります。だからこそ、アイデア技法が意味を持つのですし、大人が子供に質問することにも意味があるわけです(子供に考えさせているわけではなく、あくまで一種の触媒として既存の価値観に浸食されていない子供の脳を使うということです)。
よって、「大人のように知識を蓄え、子供のような心で考える」ことが、アイデアパーソンには必要です。
問題意識(主体者意識)を持つ
型も身につけた。知識も蓄えた。後は、アイデアがジャンジャンバラバラ湧いて出てくるのを待っていればOK──というわけにはいきません。
極端なことを言えば、この世界に絶望し、あらゆるものを拒絶している人間からはアイデアは湧いてこないでしょう。別の極端なことを言えば、この世界に生じるあらゆる問題は、自分以外の人間が解決して当然である、と考えている人間からも同様です。アイデアの生成には、ある種のコミットメントがどうしても欠かせません。主体的感覚、自分が対象にコミットする感覚が必要なのです。
とは言え、自分とは直接関係ないこと(≒他人事)においても、もちろんアイデアを生み出すことはできます。しかし、他人事は、まだ「他人」がそこにいます。それすらも知覚されない状況では、脳は動こうともしません。
これまた極端なことを言えば、傲慢な王族は、奴隷が食事に困っていても、それを「問題」であるとは見なさないでしょう。当然、問題解決について頭が動き始めることもありません。逆向きに言いましょう。何かが「問題」であると見なすということは、そこに解決すべき何かが存在していると認識することです。その認識があるからこそ、脳は身につけた「型」を発動させようとします。問題がなければ、動きようもありません。依頼主のいない探偵です。
不便な状況は、それが不便であると認識するところから改善が始まります。その状況が「当たり前」の人にとって、それは簡単に日常化(≒雑草化)してしまい、問題が意識に上ることはありません。また、「それは変えられるものだ」という認識がなければ、アイデアは生まれてきません。これもまた日常化の一種です。だからこそ、アイデア技法に「もし〜〜だったら」という現実の認識を打ち壊す発想アプローチが含まれているわけです。
上記は、別に「世界のあらゆるものにコミットせよ」みたいな暴力的な話ではありません。単に世界を眺める視点を、あたかもそれがコミット可能であるかのような眼差しに差し替えてみる、ということです。そのような眼差しの転移が起きれば、愚痴が減り、アイデアが増えることでしょう。
さいごに
アイデアパーソンになる、というのは、広告代理店に入ってバンバン有能な仕事ができる人間になる、ということではありません。
それは、世界との関わり方を変える、ということです。
あきらめの受容でもなく、完全なる拒絶でもなく。そのはざまとしての。
型から方へ。その移行を通して。
つまりは、そういうことです。