等身大の自分+アルファ

できること/できないこと」についての補足。

「自分の知らない自己が存在する」という状態を前にしたときに、「じゃあ、自己分析とかをバンバンして自分についてもっとよく知っていけばいいんですね」みたいな方向に進むのは、ちょっと違っています。もちろん、自分の知らない側面を開花させていくことに一定の意義はあるでしょうが、それを「完全なる自己理解」への道標みたいに考えてしまうと、わりと危ういのです。

「ジョハリの窓」の重要な点は、決して自己理解に吸収されない自己が存在する、という価値観の提示であり、それは「自分」という存在についての理解にどこかしらあやふさや、不確定さを持ち込む、ということです。

自分については自分が知っている。でも、何かしら知らない要素がある。自己という内側に、自己という外側が含まれている。そういう感覚が大切なのです。自己理解を拡げていった先に、完全なる自己理解が待っていると考えるのは、精緻に計算すればブラックスワンが予測できると考えるのと同様の脆さがあります。大切なのは、どんなに頑張ろうとも、自分の外側に位置する自己というものがあるという理解です。それが可能性にもなり、共感の源にもなります。

もし完璧な自己理解に辿り着いてしまったとしたら、自己はもうそれ以上どこにも行けません。限界ははっきりと突きつけられています。しかし、「無限の可能性」などと自己理解とまったく無縁なところで悪戦苦闘しても、実は少ないでしょう。どうしたって、自分にできることは実際的に限られています。ようはこの中間なのです。

自分にできることは自分がある程度知っている。その延長線上のどこかに自分は位置するだろう。しかし、どこかしら一部には自分が知らない自己がある。その領域は、自分全体から見ればとても小さいものだ。突然能力に目覚めて卓越した成果が上げられるようなことはないだろうし、もしかしたら試しに料理してみたら結構美味しく作れる自分に気がついた、みたいなレベルかもしれない。そういう「隠された自己」はいつだって存在しうる。でもって、そのほんの小さなことが、実は人が持つ可能性なのである。

こういうことです。

もう一度書いておきましょう。完全なる自己理解に至るのが良いと考え、実際にそうなったと感じるとき、自分の可能性はそこで確定されてしまいます。自分に閉じてしまうのです。なにせ、自分ができることは自分がもうすでに知っているのですから。しかし、まったく逆の自己理解の放棄は、安易であり、夢すらあるかもしれませんが、現実的ではありません。基本的には、自分は自分から抜け出すことはできません。できるのは、少しはみ出すことだけです。そして、そのための余地が、「自分が知らない自己」にあります。

等身大の自分の、その周辺にある僅かな不確かさとゆらぎ。それが可能性ということであり、希望ということであるのでしょう。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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