「悪しき者を退ければ、(それだけで)世界に救いがもたらされる」
疑問1.その悪しき者は、本当に悪しき存在なのか?
・良き貢献はなかったのか
・あったとしたら撃退者はそれを認識できているか
・できていたとして撃退者はそれを再現できるのか
疑問2.世界の救いにとって悪しき者の存在が邪魔なのだとしても、悪しき者が消え去れば、自動的に世界は救われるのだろうか?
・その後にすることがあるのではないか
・撃退者が撃退することのみを目的としているとき、その先の世界の道行きについて何も考えていないのではないか
ゲーム的リアリズム
↓
ロールプレイングゲーム的ポピュリズム
巨悪の打倒のためならば、他人のタンスを開けてもOKだし、相手は話を聞くのが当然だし、悪とは何かを主人公は考える必要がないし、力なきものは何もできない世界。死してなお、その目標を達成することが当たり前な世界。
勇者よ、24時間戦えますか。
どちらかと言えば、実際の世界はシムシティーで回っている。しかも、もっと、ずっと、ややこしいシムシティー。よかれと思ってやったことに苦情が飛んでくる世界。計画しないことが突然訪れる世界。ハッピーエンドが確約されていない世界。
ロールプレイングゲーム的ポピュリズムは、そのリアリズムを書き換える。そして、世界はもっとずっと単純になる。レベルを上げれば、救われる世界。予定調和で満たされた世界。自分にとってのハッピーエンドが確約された世界。
Welcome to New World!
リセット→異世界転生
今、物語はどうなっているのだろうか。批評はどのように機能しているのだろうか。
あるいは、その空間をまっさきに壊していくことが、ポピュリズムの嚆矢なのかもしれない。