GTDに足りないもの

最初に断っておくと、GTDは優れた手法である。

もやもやしがちな「気になること」を情報化(記録化)することで固定し、ワークフローに従って、それを定性的に処理していく。結果、私たちは「気になること」から解放され、ストレスフリーが到来する。

しかし、足りない部分もある。たとえば、以下のような点だ。

  • 実行に関するサポートはほぼない
  • ログが重視されていない
  • アイデアの扱い方も考慮されていない

まず、GTDでは「実行」はほぼ確実に行えることになっている。GTDが提供するのは「リスト作り」のノウハウまででであり、「適切なリスト」が目の前にありさえすれば、私たちはその中からしかるべき行動を選択し、それを実行に移せることになっている。

非常に残念ながら私はそのような人間ではないし、おそらくそれと似たような人は多いだろう。

次にログである。これは特に繰り返す作業が多い人ほど有用なはずだが、GTDはあまり情報の取り回しが扱われていない。日々違うクライアントに違うサポートを行うコンサルタントならば、さほど情報の再利用は意味を成さないのかもしれないが、多くの仕事ではむしろ繰り返しの適切な処理が重要となる。

最後にアイデアの扱いだ。これまた不思議なことに、GTDではアイデアは書き留めてさえいれば、それが扱えるような雰囲気があり、具体的な手法までは語られていない。「プロジェクトノートにアイデアを書き留め、それをレビューしていけば大丈夫」といった言外のメッセージが感じられる。

すでに卓越したプロフェッショナルならそうかもしれないが、これから仕事を学ぶ人間にとってはそうではないだろう。

やっかいなのは、「タスク」と「アイデア」は異なる、という点だ。それは「タスク」と「やりたいこと」が異なる以上に異なっている。だから、その扱い方も(大部分は似ているにしても)違ってくる。

「アイデア」の扱い方に関しては、たとえば『知的生産の技術』が、あるいは『思考の整理学』がそのノウハウを提供してくれている。これはこれで見事な手法なのだが、今度はタスクの扱い方が語られていない。

言い換えれば、それらの手法は文脈的に別離している。私たちの脳内は一つである、というのに。

私はここに、現代まで語られてきた情報整理ノウハウに不備をみる(※)。タスクとアイデアが別の手法で整理されることは難しくないのだが、必要なのはそれを一つの統一的な視点から語ることである。つまり、まず統合的な「情報」の整理、という観点があり、その内訳として「タスク」と「アイデア」の整理が語られることだ。
※その点、野口悠紀雄の整理法は両方への視座があるが、タスクの扱いは雑である。

そうすればひとりの人間の中で、無理なく二つの(あるいはそれ以上の)性質の情報が扱えるようになるだろう。これは、ここからの私の一つの課題としておきたい。

整理が提供するもの

では、そうした整理を通して得られるものはなんだろうか。

GTDではストレスフリー(≒水のような心)として語られる。同じことは、梅棹忠夫が『知的生産の技術』の中で先駆的に言及している。

これはむしろ、精神衛生の問題なのだ。つまり、人間を人間らしい状態につねにおいておくために、何が必要かということである。かんたんにいうと、人間から、いかにしていらつきをへらすか、というような問題なのだ。整理や事務のシステムをととのえるのは、「時間」がほしいからではなく、生活の「秩序としずけさ」がほしいからである。

梅棹は、能率性という観点ももちろんあるかもしれないが、重要なのは「秩序としずけさだ」と説く。このことは、頭の中から「気になること」を追い出し、脳をすっきりさせるGTDと見事に呼応するだろう。この時代を超えた呼応は、普遍性を感じさせるものだ。

そして、この「能率性ではない」という点は、非常に重要である。それを忘れると、GTDは誤った万能感を与えかねない。

GTDをマスターしたとしても、10トンの石を持ち上げられるようになるとは思わないだろう。100mを3秒で駆け抜けられるようにもならない。しかし、なぜか25時間かかる仕事が24時間でできるようには感じられてしまう。不思議なものだ。

別の言い方をすれば、数多くのものが「一日」の中に収まるように感じられる。それに(おおげさな言い方をすれば)反旗を翻しているのがタスクシュートなわけであるし、GTDが実行をサポートしてないという点もここに絡んでくるのだが、それは横におこう。

「気になること」を書き留め、それらをすべて「適切な場所」に配置すれば、安心できる。

GTDが提供するのは、基本的にこれだけなのだ。GTDは、超人に変身するためのメソッドではない。

しかし、(アレンの語り口もあるのだろうが)、このメソッドには何か別の響きがある。それはおそらく「リスト化」=「領土化」と関係しているだろう。リスト化したことで、あたかもそれが達成可能であるかのように感じられてしまうのだ。

本来的には、「すべきこと」は「できること」でなければいけない(そういうことを述べた哲学者もいたはずだ)。しかし、現実の社会では必ずしも「すべきこと」が「できること」とは重ならない。その原因は、無理な仕事を押しつけてくる上司かもしれないし、なんでもかんでも興味の赴くままに手を出してしまう自分かもしれない。

ともかく、セルフマネジメントにおける「リスト作り」の主体者は自分である。その王国の国王は自分自身であり、大臣や閣僚はまったくいない。何を「すべきこと」にするのかは、自己の裁量で決定できる。そこにはただひとつの審級しかなく、間違いが入り込んでも、それをただすものは誰もいない。

できたリストは、絶対に正しいのだ。あるいはそのように感じられる。

しかし、現実の自分はそこに追いつかない。なにせ、GTDは「水のような心」を与えてくれるだけだからだ。

もちろん、そのような心の状態が強力であることは間違いない。能率が上がることだってあるだろう。が、結局の所、それは水の流れが元に戻っただけなのだ。荒れていた水の流れが、もとの静かな流れに戻った、ただそれだけである。

もともとできたことが、できるようになっただけ。

潜在的な力にアクセスできたわけでも、真理の扉を開いたわけでもない。単に、本来発揮される当人の能力が、抵抗値少なく発揮されるようになっただけだ。

たしかにそれによって、達成できることの数は増えるだろう。でも、「やろうと思ったこと、すべて」ができるようになるわけではない。作ったリストがすべて達成できるわけではない。

非常に簡単な話である。非常に単純な話である。しかるべき人たちなら、何を今さらな話だろう。

しかし、この点は本当に重要なのだ。自分でリストを作って、自分を苦しめる。そういう事例がポツポツと見受けられる。それはどの角度から切り取ってもGTDやその他のノウハウが目指している場所ではないだろう。

さいごに

本稿では二つのことに触れた。

一つは、「ひとつ上の階層」から情報の扱い方について考えること。もう一つは、能率重視と誤った万能感だ。

ノウハウには、どこかしら万能感を刺激する要素が入り込むことが避けられないにしても、それが過度に高ぶらないような配慮は必要だろう。

できることができるようになり、できないことはできないと納得する。

このように書くと、何も新しいものは得られていないように感じられるが、現代のような過度に個人に達成を求めてくる社会においては、そういう領域(斎と言ってもいい)をキープすることは、案外重要なのかもしれない。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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