現代は、ノウハウ天国である。
ありとあらゆる対象に関する、ありとあらゆるノウハウが、ありとあらゆる場所に散らばっている。あるいは、そのような幻想を皆が抱いている。『知的生産の技術』で梅棹が懸念していたような「技術ぎらい」は、もう過去の話だ。
いや、むしろ技術の話だけではない。あらゆるトピックがネット上には存在している(かのように感じられる)。しかし、それらは散逸的であり、分散的である。なにしろそれがインターネットなのだ。
情報は散らばったままでは使えない。一元管理し、使えるように「整理」することが必要だ。パケットですら、一度は分割されて配信されるが、受信地点ではそれが「整理」される。だからこそ、はじめて情報は意味を持ちうる。
その意味で、情報分割時代な現代だからこそ、「大全」的なものの必要は高まっている、とは言えるだろう。最近の書籍で、全史や大全ものがたくさん発売されているのは、偶然でもヒットメーカーの暗躍でもない。情報環境的な要請が背後にあるのだ。
たとえば、『ライフハック大全』という本がある。250ものライフハックを集約した本だ。たしかにこれら一つひとつのネタは、ネットを探せば見つかるに違いない。しかし、逆に言えば、それらは探さなければ決して見つからない、ということでもある。「Lifehacking.jp」というブログはもう10年以上も続いているらしいが、それらの蓄積の中から、有用なものだけを250個選抜する作業をあなたはやりたいと思えるだろうか。私はNoである。
インターネットは、分断的である共に、水流的でもあるので、過去のものはどんどん押し流されていく。さらに検索の世界はゼロサム的なパワーゲームであり、中流以下のものはまったく目につかなくなる。とある政治家の言葉を拝借した「(検索結果)2ページ目じゃダメなんでしょうか?」という問いには、「ダメなんです」という答えを返すしかない。たいていの人にとって2ページ目以降の検索結果は存在しないに等しい。
総じて言えば、情報に溢れかえる現代では、むしろ逆にいろいろなものが見えなくなっていく。最悪なのは、見えないがゆえに、見えなくなっていくことに対する懸念すら見えなくなることだ。それはイデオロギー的な意味でのフィルターバブルよりも、いっそう恐ろしい現象である。
だからこそ、「本」という情報のパッケージにおいては、大全化の要請が強まる。
単にそれは、「情報が一カ所に集まっていて便利ですね」という話だけではない。少なくともその点で言えば、Googleというサイトは、これ以上ないくらい「情報が一カ所に集まっている」。しかし、それがもたらす利便性は、一つの利便性の形でしかなく、最高のもの、それさえあればよいというものではないだろう。
大全は、編まれる。誰かの手によって選別され、解釈され、解説される。そのコンテキストは、アルゴリズムではないものだ。誰かの知によって、世界観によって、観念によって、編まれたものだ。だからこそ、「私」(≒情報の受信者)にとっての、ノイズが入り込む余地がある。ゆらぎが生じ、ゆさぶりが生じる。進化に必要な要素だ。そしてそれは、個人に最適化されたアルゴリズムがまっさきに排除してしまう要素でもある。
その観点をとことんまで突き詰めたのが『アイデア大全』と『問題解決大全』という二冊の本だろう。これらの本には、どう考えても「アイデア」や「問題解決」という単純なキーワードだけでは集められない情報が集約されている。人の手、つまりあるコンテキストを内包する生命体の手によって、編まれたコンテンツ。それらは常に逸脱を含む。可能性という逸脱を。
自分で本を書くときでも感じるのだ。このテーマなら、これとこれとこれを書いたらまとまるな、という固定観念先行の「目次案」通りに書いた本は、基本的にはつまらない。このつまらなさは、おそらくは「アルゴリズムでも書ける」と言い換えられるだろう。断片の情報があり、それを抽出するアルゴリズムがあれば、すぐにでも完成してしまう。そこには、ゆらぎがどこにもない。
人を──つまりは自分と他者を──ゆさぶらないコンテンツを「新しく作る」意味などどこにあるだろうか。特にこの、必要最低限の情報ならば、アルゴリズムが自動記述してしまう時代において。そのことは、あと5年もすれば、よりくっきりと浮かび上がってくるだろう。
少なくとも現時点において、一つ言えることがある。ただの検索会社に自らの知を一任してはいけない。
この言葉が、そんなに突飛に響かないことを期待している。