先日、『ライフハック大全』の発売記念イベントが開催されました。
250ものライフハックが詰まった「ライフハック大全」発売!発売記念イベントで改めてライフハックの凄さを感じたぞ! #ライフハック大全 | むねさだブログ
「ライフハック大全」 #134冊目 #1000冊紹介する #献本 – シン・みたいもん
改めて感じたのが、ブログとライフハックという二つの現象が重なることのパワーです。
過去の言葉とツール
まずは『知的生産の技術』から振り返ってみましょう。
発売当時、この本はたいへんな人気だったのでしょう。でもって、この本のタイトルにもなっている「知的生産の技術」は、さまざまな対象を内包しています。読むこと、書くこと、書き留めること、考えること、整理すること、生み出すこと。ようするに、〈考えて、生み出す〉ことに関するあらゆる話題が、この言葉のもとに集約されえます。
当時、こうした分野について興味を持っていた人たちは、きっとこの言葉の登場によって、はじめて「クラスタ化」されたのだと想像します。〈話題〉という土台が設定され、そこから話を始めることができるようになったわけです。
だからきっと、自分で知的生産の技術ついて考えたり、それを「仲間内」で共有するような動きも生じたでしょう。しかし、その動きは、それほど広範囲ではなかったと想像します。なにせ、その時代にはインターネットがなかったのですから。
現代の言葉とツール
時代は移り変わって現代。
現代には、まずインターネットという土台があり、誰でもが簡単に発信できるブログというツール(あるいはメディア)があります。
その上で出てきたのが「ライフハック」という言葉です。この言葉が指し示すものは「知的生産の技術」と重なっている部分も多いのですが、それ以上に間口の広さにおいて共通点を持ちます。言ってみれば、なんだってライフハックなのです。この言葉の登場によって、個人が内側に抱えるさまざまなテクニックが、はじめてテクニック(≒ライフハック)として認知されました。
この二つが重なる中で、いわゆる「ライフハックブログ」のブームが誕生したのでしょう。
まず、「ライフハック」という言葉によって、多様なものを対象に含む技術論・テクニックに関する話題に興味を持つ人がクラスタ化され、それが「ブログ」というメディアによって、ネットワークを形成した。そこで生まれる情報の流れは、濃密で、濃厚だったはずです。もちろん、ノイズもあったでしょうが(なにせ対象が広いので)、それもまた新しい刺激として機能していたと想像します。
しかし、ノイズは少量のときはうまく機能しても、それが増えてくると(つまりS/Nが崩れてくると)、だんだんおかしくなってきます。別の言い方をすれば、あまりにも広がりすぎたことで、クラスタ化が意味を成さなくなったのです。
でもって、それが現在の状況なのではないでしょうか。
ビッグワードからスモールワーズへ
それでも、ここ10年で、「ライフハック」という言葉が引き起こしたクラスタ化は非常に良いものをもたらしてくれたと思います。この言葉がなければ、決して知り合うことがなかったであろう人たちと、今の私はつながっています。言葉の恩恵を受けているのです。その意味で、この言葉を軽々しく扱うことはできません。
しかし、この言葉は、ビッグワードです。
でもって、時代の(あるいは技術の)流れは、分散に向かっています。マストドンなどがそうですが、巨大なプラットフォームではなく、持ち寄り型のネットワークの多重な連合が、擬似的に大きな構造を作り出す、という方向を向いています。
その点を考えると、今一度「ライフハック」というようなビッグワードが登場しうるのかを想像すると、少し厳しい予感が漂ってきます。
それにブログというものも、昔ほどの盛り上がりはありません。何かを達成するためのツールとして扱われている状況もあります。
それでもまだ、私たちの手から発信ツールが消えたわけではありません。ブログだって普通に使えますし、その他さまざまな形態の発信装置は生まれ続けています。そして、あいわからず、我々人類は言葉を生み出すことができます。
おそらくもう「ライフハック」ほどの巨大な受け皿機能を持つ言葉は生まれないことでしょう。しかし、マストドンに見られるような、小さくニッチな言葉を作り、それらの連合の中で、緩く広いつながりが形成されていくことを夢見ることはできます。
小さくても、大切な夢です。
さいごに
人は、基本的にはバラバラな存在です。
だから、まず最初に必要なのは、KJ法のように近しいものを集め、それに「見出し」を与えることでしょう。それが、「小さくニッチな言葉」になります。あとは、その言葉たちをまた集めていくことを繰り返してけば、ネットワークは徐々に拡大していきます。
どこまで広がるのかはわかりません。おそらく全体を包括することは無理でしょう。それでも、タテ社会が与える極めて限定的な「場」よりははるかに豊かで、広がりのあるものにはなるずです。
つなぐものとしてのメディア、受け皿としての言葉。
手を伸ばすものとしてのメディア、旗印としての言葉。
焼き畑農業的に言葉を乗り換えていくのではなく、小さな言葉を集めていく。そのようなつながりの形が、これからは必要なのかもしれません。