頭の中を空っぽにする。ストレスフリーの到来。
うんうん。たしかに、それは素晴らしい。
そのために、私もいろいろやってきた。
でも、あるとき、ふと気がついたのだ。けっこう衝撃的な事実に。
たぶん、心理的なインパクトで言えば、ニコラウス・コペルニクスが「あれっ? もしかして、動いてんの地球じゃね?」と思いついたときに近かったと思う。それくらいの衝撃があった。
「日常時間のほとんどの時間は、頭の中はぜんぜん空っぽなんかにはなってない」
いやいや、だからそれを空っぽにするんでしょう、というツッコミが入ると思うが、そういうことではないのだ。
私が生産的な状態になっているときは、常に何かを考えている。歩いているときでも、トイレに入っているときでも、ツイートしようとしているときでも、何かを考えている。それは、次の本の章立てかもしれないし、タスク管理の方法論かもしれないし、人間がなぜ無限を欲するのかというような哲学的思索なのかもしれない。そういう思念が、あるいは雑念が、渦巻いている状態がデフォルトであり、であるからこそ、私はこうして物書きとして仕事ができている。
頭の中が空っぽだったら、私はいったい書き物のネタをどうやって拾い上げればいいのだろうか。
わかりやすく極端な話をしよう。
本当に静寂に身を浸したければ、無音の部屋に入り、真っ白な壁に囲まれて孤独に過ごせばいいだろう。でも、そんな状態では仕事はできないし、そもそも人は発狂してしまうらしい。
もちろん上記は極端な例なのだが、仕事を進めるためには、少なくとも一つ以上の「気になること」を頭に留め置く必要がある、ということは言えると思う。空っぽではいけないのだ。むしろ、創造性というのは、いろいろな具材がカオスに投入された鍋を、ぐつぐつと煮込むところから生まれてくる節がある。
もちろんそれだって、極端な方向に張りを振れば、精神錯乱みたいなことにはなってしまうだろうが、一定の刺激なり短期記憶なりが必要なのは間違いないだろう。
そうは言っても、だ。
たとえば、月末の家賃が振り落とされるだろうかと心配していたり、歯医者いかないとないけないみたいな不安な状況では、創造性を発揮するのは難しいだろう。集中できるかどうかすら怪しい。そういう「気になること」は頭から追い出して、適切な処理を行うべきである。そのレイヤーでの心の静寂は必須と言える。
しかし、そこにあるあらゆる雑念すらもそぎ落としては、あんまりよろしくないのではないか。少なくとも、自分の仕事に限ってはそう言えるのではないか。歩きながらブツブツいっている数学者や哲学者なんかは、その頭の中に「気になること」がいっぱいあるだろう。少なくともそれは、ゾーンのような状況ではないと推測する。しかし、そのような状態こそが、次なる問題解決の土台を、言い換えればスープの下準備をしているのではないだろうか。
結局は、「注意」のコントロールが鍵となろう。
つまり、自分がそのとき「気にしたい」ことを「気にする」ために、他の「気になること」を制御する。そう考えたときに、パーソナルライブラリーにおけるinboxの新しい姿が立ち上がってくるように思う。
そこは別にzeroにならなくたっていいのだ。私の頭が常に何かを考えているのと同じで。
コメントを残す