自由と自己の距離感

細かく予定を決めたりすると、「自由ではない」という反応が返ってくる。

言いたいことがわからないわけではないが、しかし、ふしぎな反応である。

自分でツールを使い、自分の行動を決定する。すべては自分由来である。「自由」という言葉は、「自分に由る」のだから、これ以上ない自由ではないだろうか。

視点を変えてみれば、そのような自己管理とは、「A時点の自分が、それよりも後のB時点の自分の行動に影響を与える」ということだ。支配者が自分で、被支配者も自分である。結局それは、「自分は自分のルールに従って行動している」こと以外の何ものでもなく、それを自由と呼ばないなら、何を自由と呼んでよいのか困惑してしまう。

とは言え、話はそんなに単純ではない。

B時点の自分からして、A時点の自分が「自分」だと思えない状況があるのだろう。もし、そうであれば、それは他者からの指示であり、支配であり、強制でしかない。これは自由ではないだろう。

ここで時間軸を動いてみよう。まず、たった今思いついたことを実行に移そうとする。A時点とB時点の時間的差異は非常に少ない。自己の連続性によって、その二つの自分は同一性は強く担保されている。自由な感覚が宿るだろう。

一般的に、この二つの時点が離れれば離れるほど、自分同一性はあやふやになっていく。自分とは思えなくなっていくのだ。実際、時間が経てば、物事の考え方や情報摂取のスタイルは変わるし、そこから構築される世界観というのも変わってくる。よって自分と思えなくなるのは、別段不思議ではない(むしろ、私たちはなぜ昔の自分を自分と思えるのかを不思議に思った方がいい)。

しかし、一方では、昔から自分が大切にしてる価値観や行為があり、それに沿って行動を選択するときには、どこかしら自由な感覚が宿るのではないだろうか。その価値観が生じたのは、ずっと昔だとしても、今の自分がそれに束縛されている感覚は生まれにくい。この辺が話をややこしくする。

不一致。原因は不一致にある。

過去の自分から「予定」が回ってきたときに、その「予定」が無茶なものだったらどうだろう。たぶん「わかっていない」という感じを受けるだろう。その感覚の齟齬が、自己の同一性を阻害してしまう。

だからもし、極端に考えてみれば、過去の自分から「予定」が回って来たときに、そのときの自分ならまあこう立てるだろうなというような「予定」であれば、自己の同一性は保たれるし、そこには「自由」な感覚が宿るのではないだろうか。結局それは、そのとき思いついたことをする、というのとほとんど近しいわけだから。

そうなると、必要なのはシミュレーションの精度ということになる。制度が高いほど、押しつけられている感覚は減るだろう。

それが過去の自分と、未来の自分を接続する。

そしてこれは目標設定とも関係している。過度な目標は、自分以外からの押しつけのように感じられやすいだろう。だからこそ、ほどほどが大切である。

もちろん、以上のようなことをしなければ自己管理は達成できない、という話ではない。いかにして「自由」の感覚を維持するのか、という一策の話である。それが大切だと思うならば、意識した方がよいだろう。

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