自己啓発書が役に立たない本当の理由

考えてみると、自己啓発書とは不思議なものである。

有名どころなら『道は開ける』や『7つの習慣』あたりだろうか。たしかに優れた著作ではある。これらの本からは「なるほど、そうやって生きていけばいいのか」と啓発されることも少なくはないだろう。

そこで高ぶっているのは言うまでもなく「自己」であり、自己が啓発されているという表現自体におかしなものはないのだが、ちょっと考えてみると「あなたのお話はたいへん素晴らしいもので、強く自己啓発されました」みたいな日本語はこの世界には飛び交っていないことを考えると疑問は残る。

「自己啓発」いうときの「自己」とは鼓舞される対象だけを意味するのではなく、その鼓舞を実行する主体者をも含んでいるのではないか。「自分で自分を啓発する」──それを助けるための本が自己啓発書である。

さて、誰か偉い人が「人生は〜〜なのです」「人が生きることは○○なのです」と説き、それをウンウンと頷いて「よし、自分も徳のある生き方を送っていこう!」と強く決意する。すばらしい出来事ではあります。しかし、これはどこからどうみても、純粋100%に他者から啓発されているだけです。演説台の前に並んで、高まる熱気と共に腕を振り上げている聴衆とまるでかわりありません。

別段自己啓発書に書かれていることが、無用な役立たずの文章ばかりである、といったことを言いたいわけではないのです。その言い方をするならば、あらゆる本に書かれていることは役立たずでしょう。所詮はインクのシミであり、それをどう読み取るかはあなた次第。そういう話です。

そしてあなたが他者から啓発されることを望んでいる限りにおいて、自己啓発書は自己啓発書足りうることはありません。必然的にそうなります。

別の言い方をしましょう。あなたが外的要因から「自己啓発しなければ」と思い込んでいるのなら、本にどれだけ有用な事柄が記述されていても、それがもたらすのは自己啓発が目指すものとは違ってしまうでしょう。それは、一時的な救いや癒し、限定的な慰めをもたらしてくれるのかもしれませんし、そこに一定の有用性はあるのでしょうが、むしろそれは反動として「自己啓発しなければ」という思い込みを強めることとなり、ますます自己との距離感は開いてしまいます。

つまり、本の話ではなく、本の前の話です。

では、あなたはなぜ自己啓発書を手に取ろうとしていますか、みたいないことを書き始めると「自己啓発書」っぽくなってしまいますね。なかなか難しいものです。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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