目標なんてクソ喰らえとあなたは言うけれども

「目標」の研究
「目標」の研究

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この本は、実はけっこう微妙な本なのだ。自己啓発書にありがちな「目標賛美」では決してない。

だいたいにして、人はただ生きて死ぬものだ。そこに特別な意味も目的も存在しない。人間以外のあらゆる生物がそうしているように、ただ生きて死ぬだけの存在なのだ。あとのことはDNAがなんとかしてくれるから、人間は何も気にしなくてもいい。

だから、目標なんてクソ喰らえという意見には一応頷ける。もっとアニマルに生きていけばいいと言われれば、そうかもしれないなと、一応考えたくもなる。

それでも、だ。

人は意識なんてやっかいなものを持ち、そこそこに長い寿命も獲得しつつある。社会は個々の生命を重視しながらも、そこに「充実した生」の重要性を重ね、裏側で消費行動のツボを押している。なかなかアニマルのように「あるがまま」に生きることは難しい。

それに、そんなややこしい話を持ち出さなくても、少し前を向いて生きていくことはそんなに悪いことではない。その欲望が市場主義に飲み込まれすぎない限りは、絵画に惚けたり、音楽に溺れたり、知的好奇心に満たされることは、人としての器に何かを注ぎ込んでくれる。

むろん、そのことそのもの、つまり「人としての器に何かを注ぎ込むこと」が本当に必要なのかと問われれば、やはり否と答えるしかない。だって、人はただ生きて死ぬだけの存在だからだ。「人としての器に何かを注ぎ込まなければならない」となってしまった瞬間に、すべては崩壊していく。虚構が混ざり込む。

だからこれは微妙な問題なのである。有用か無用かという問い立てをしてしまうと、それ自身がミスリードを生むようなそんな構造を持つ。そこにあるのは、単にそれを求める心の姿勢だけだ。

でも、僕は、この社会を生きる上で、目標というものが決して愚かしい存在だとは思わない。それは生きづらさを緩和し、何かを守るための力を持つ。その点は、きちんとキープしておきたいのだ。単なるアンチとなって、何もかもを簡単に否定してしまうようなことはしたくない。

とは言え、注意は必要だ。目標は容易にコントロール装置となりえる。上の本ではメタファーの形でしか示せなかったが、目標が持つ人を誘導する力を狡猾に使って、人を落とし込むような存在はたしかにある。「やりがい搾取」はその一例だし、うさんくさい自己啓発セミナーが、「自分らしい生き方」だとか「人生の意味」だとか、そういう言葉であおり、目の前に存在している日常の価値を否定してまわっているのも同じである。

そういう圧に晒されていると、「目標」という言葉、あるいはその概念に嫌気がさし、忌避してしまう気持ちもわからないではない。むしろ、自然な反応だろう。

でも、「目標」なんて大層な言葉を使わなくても、人はいろいろな場面で、「前を向いて」生きているのだ。来週でも、明後日でも、2時間後でも、5分後でも、人は何かしらの状態を見据えて行動し、決断している(あるいは、そのような感覚を持つ)。それは広義の「目標」を持っている、ということだ。

それは決して「固い」情報ではないかもしれない。あっさり破棄したり、変更できたりするかもしれない。でも、それはやっぱり「目標」だし、僕の考えではそのような性質を持つものこそが「目標」なのだ。

名前をつけない上位階層 – Word Piece 3

この一年の自分にいろいろと思いを馳せたりしないこともないのだが、「目標」とか「夢」とか、そういう名前のつく立派なものではなく、リアルに感じるのはいつも、小さくて漠然としたイメージの集合体だ。

僕は思うのだけれども、「小さくて漠然としたイメージの集合体」を羅針盤にできる人は、たぶん強い。あるいは、その裏に何かの確信が潜んでいる。

その確信を持たない人は、「大きくて詳細を欠く一つのイメージ」を頼りにしてしまう。それがいかに危うく脆いものなのかは、障子紙で作られた橋を思い浮かべて見ればいい。渡りきれるはずがない。

あるいは反動的に、なんのイメージも持たないという戦略に出る。それは極めて場当たり的で、感情的で、散漫で、流れに左右されてしまう。まるで釣り針を待つ魚のようなものだ。

それは「目標」とか「夢」とか、そういうものに近い役割を果たすかもしれない何かだけど、安易に名前はつけないようにしたい。

7年以上、言葉を使う仕事をしているが、本当に言葉というのは扱いが難しいものだなと感じる。人々が口を揃えて「目標」と言っても、それが指すものはずいぶん異なっていたりする。

もちろん、使い方の広さというのが言葉の特徴なわけだが、問題がないわけではない。ヘリウムを「水素」と呼んでもかわないが、水素のように扱ってはマズイだろう。つまり、何と呼ぶかは問題ではなくても、それをどのように扱うかは問題になるわけだ。

同じことは「目標」についても言える。

自分が生きる上で、目の前に(あるいは頭上に)置くものを何と呼んでも構わない。しかし、それをどう扱うかは極めて重要なことだ。

人は(あるいは人の意識は)、無為というものに耐えられない。むしろ、意味付けこそが人間の脳の癖であり、それは言い換えれば、人は物語の中に生きているということでもある。

だからこそ、自分で意味付けできない人は出来合いの物語を拝借することになるし(「あなたらしい人生を生きるセミナーにようこそ!」)、意味付けを拒絶すれば、精神はおそらく不調に陥る。

だからこそ、「目標」というものを自分の目の前に置けることはけっこう大切なのだ。不可欠とまでは言えないかもしれないが、一つの生きるスキルではあろう。

人は、世界に生きている。それはつまり、具体と共に生きている、ということだ。日常こそが人生なのである。

そのことを踏まえた上で立てられる目標であれば、人を落とし穴や暗い洞窟に導くことは少ないように思う(ゼロとは言えない。どれだけ注意して歩いても深い井戸はひっそりと人を待ち受けているものである)。

計画経済でもなく、アナーキーでもない。

たゆたいながらも、前に向かって進んでいくためのガイドライン。

それは常に、漠然とはしていても、具体と実感を備えるもののように思う。

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Rashita
物書きをやっております。実用書から小説までなんでもござれのハイブリッド物書きです。 ライフハックや仕事術、知的生産などに興味があります。

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