言説スタイルという武器の選択

「これで世間に議論が起きたからいいんです」

という言葉をたまに見かける。だいたいは、極端な言説がお得意の方が、炎上騒ぎになったときに持ち出す言葉だ。

たしかに社会に問題があり、しかしその問題が埋没されてしまう状況に比べれば、たとえ炎上騒ぎになったとしても世間に議論が巻き起こった方がよいとは言えるだろう。でも、本当にそうなのだろうか。

そうした言説は、一方後ろに引いてみると、議論が起これば何をしたってよい、という風に聞こえる。さすがに、そういう話だとアラートが点滅する。極端なことを言えば、それならテロだって正当化されてしまうではないか。だから、線引きは必要であろう。

普段炎上に親しんだ人が、そうした「議論」を巻き起こすと、問題そのものよりも、「その人が発言した」という点に注目が集まり、そのコンテキスト含みで話が進んでしまう。理想として、「誰が言った」ではなく「何を言ったか」に注目すべきなのではあるが、それでも私たちはコンテキストを無視できない。たとえば、ポジショントークかどうかというのは、コンテキストを踏まえなければならないし、狼少年を無視した村人だって情報の認知コストから言えば間違ったことをしたわけではない。

なんだかんだで、誰が言ったのかは大切なポイントだ。それは権威性の確認のためではなく、より大きな信頼性の担保のためである。

もし、話題を周知させるだけでその問題が片付くならば、炎上経由の話題提供には一定の効果が見られるだろう。でも、そうでないとしたらどうだろうか。

議論を俎上に載せ、そこから理性的な対話を時間をかけて進めていかなければならない問題なのだとしたら、強い感情を揺さぶる形で広まった話題では効果はないばかりか、逆効果になってしまうこともある。

理性的対話の欠落とは、「敵は敵、味方は味方」という感情的感覚を引き継いだまま「議論」──括弧書きにしたのは、それはとても議論とは呼べない罵詈雑言の投げ合いになるからだ──が行われることを意味する。これでは間にある壁はますます強力になっていく。問題解決のために、その壁を何とかする必要があるなら、是非とも避けたい事態である。

敵対から対話へ、それが無理ならせめて議論の構図に持っていかない限り、社会的な変化は起きないのではないか。壁は壊せないのではないか。

だとすれば、「あいつの考え方は好きではないが、一応はじっくり話を聞いてみようではないか」と思ってもらえるポジション(≒コンテキスト)を得ることが必要だろう。それは無茶苦茶大変なことであり、継続的に信頼のおける発言を繰り返していくしか術(すべ)はない。時間と手間がかかる。でも、そうした行為だけが穿てる穴というのがあるのではないだろうか。

とりあえず、話題を盛り上げればそれで一定の成果が生まれるものと、それだけでは十分ではないものがあって、後者は話題を俎上に載せてからが本当のスタートである。そこから、理性的で継続的な対話が必要となってくる。世の中には、激情で誰かを罰しただけでは、因果がくるりと回るだけのやっかいな問題というのがあるのだ。オセロのように白を黒、黒を白、白を黒にしている間に、状況はどんどんと悪くなってしまう。やがて誰かが新しい盤面を提供し、そうしてオセロゲームは拡大を続ける。白と黒の問題は、いつまでたっても解決しない。

ある種の話題提供スタイルの言説人は、そうしたオセロゲームは得意なのかもしれない。白であろうが黒であろうがどっちでも気にしないからだ。むしろその争いが激化するところが彼らの劇場なのかもしれない。でも、本当はその二つが争っているということそのものが問題なことがある。「白が勝つか、黒が勝つか」という論点から抜け出ないと、構造的どん詰まりに追い込まれてしまうことがある。オセロゲームが得意な人間に、その問題解決を任せることはできれば避けたい。

結局のところ、僕たちは普段使っている武器で戦うしかない。だから、何を武器に選ぶのかは、大切な選択なのだ。

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