「情報を扱う技術」を必要とする領域の図式化

メルマガで、新しい知的生産の技術について考えている。

技術的新しさもそうなのだが、それを必要とする対象についても新しさがある。でもって、その領域では知的生産の技術というよりもむしろ、情報を扱う技術としてそれは必要とされるだろう。なにせ現代は情報化社会なのだから。

前回図式化して考えたので、今回は別の軸で切り込んでみたい。

主体

まずは主体だ。これを私・集・公の3つに分ける。

「私」は、個とほとんど同じだが、家族的な集まりも含む。プライベート。ひとりで生きて生活するのでも、情報の扱いは必要である。ゲーム攻略、音楽鑑賞、お食事処の感想、趣味の創作エトセトラ、エトセトラ。

次に「集」だ。これは仲間やクラスタという言い方でよいと思う。あるいは、ルナー・ソサエティーやクランのようなものを想定してもいい。一定の基準によってつどった同士たち。外向けに活動することもあれば、あくまで内向きに限定される場合もある。ちなみに、現代日本はこの「集」の力が著しく減退しているというのが私の見立てたが、ここでは脱線になるので割愛する。

最後に「公」。開かれた場所、社会、パブリック。仕事、NPO活動、ボランティア、PTA、エトセトラ、エトセトラ。そこには「いやおうなさ」が入り込んでくる。場を共有する人を選べない。他者が常に入り混じる。そういう場所だ。

この三つを主体に定める。

アウトプット濃度

続いて、それらの主体がどれほどアウトプットを生産するか、生産せざるを得ないかで分ける。

家族や個人の知的生活では、生産ニーズは低く、社会や仕事、特に知識労働者では激しく高くなる。

ここにはさまざまなグランデーションがあるわけだが、濃い部分ではアウトプット生成のための技術がフォーカスされ、薄い部分では情報の収集・保管・共有や、思考・分析・判断についての技術がフォーカスされる。

アウトプット濃度が濃いところほど、たくさんのインプットを必要とするのだが、成果物生成のための時間やそもそものインプット必要量の多さから、インプットは必然的に厳選される。逆に濃度が薄いところほど、ゆったりと楽しみのためのインプットを謳歌できる。

図式化

では図にしよう。縦軸を主体に、横軸をアウトプット濃度にする。縦軸は上に行くほど「雑多な人々」が交じり合い、下に行くほどピュアに個人に近づいていく。横軸は右に行くほど、成果物を生み出す必要や欲求が高く、左に行くほどそれが低くなる。

その上で、知的生産の技術の黎明期の本を3冊位置づければ上記のようになる。

さらに、図で空いた部分を想定する。

まず「家族生活での情報技術」がある。共働きの二人の人間ですら、買い物リストを共有することが必要となる(うちの夫婦のことだ)。人生にはもっとたくさんの情報があるわけで、それらを扱う技術は必要だろう。この点は自分一人における情報技術と通じる部分はあるものの、独自の何かも想定できるだろう。

次に「場」マネジメントだ。完璧に気心が知れた同士の集まりから、少し他者が交わる集まり。そうした場(あるいは空間)における情報技術。成果物の要求が先にあるのではなく、単に議論・意見交換すること。「雑」談。これからの社会ではそうしたものがますます重要になっていくだろう。

最後は「市民2.0」とした。言うまでもなく『一般意志2.0』のパクりである。『一般意志2.0』は、市民が市民性をそれほど発揮することなく、でもその意思(欲求)が政策に反映されているようなビジョンが示されていたように思うが、それとは別に市民が自主的・意識的に多様な人々(≒他者)と交わろうとすることを支える技術があってもいいだろう。

とは言え、そこに集まる人々の多様性から言って、この情報技術はひどく難しいものになるだろう、ということは予想できる。

図式化2

ついでに右上も埋めておく。

ここでは「ナレッジ・マネジメント」としたが、ようするに多様な人々の知を用いながらいかに成果物を生み出すのか、についての技術だ。知識の共有は左側でも行われるわけだが、アウトプットが前提にある点が少し異なっているし、ツールなどの設計もまたそれによって変わってくるのではないだろうか。

位置的には「会社」ぐらいの〈おおやけさ〉だが、もちろんこの上のレベルも想定できる。が、それらが集団となって何かを生み出す、というのは少しイメージしにくいので、ここでは空欄にしてある。私の想像力がお粗末なだけかもしれないので、別途検討は必要だろう。

知をつなげる

で、だ。

ポイントはこれらを個々の、言い換えれば個別の要素として扱うのか、それとも一続きのものとして扱うのかである。個人的には後者でありたい。

「私」から出発し、「集」に参画し、最終的にそれが「公」につながっていくような流れ。それがデザインできれば素晴らしいのではないだろうか。

スタートは「私」だ。自分やその身の回り。これを整えないことには先には進めない。いきなり「公」から始めると、現実を無視した話になりがちである。しかし「私」に留まっていても広がりはない。「公」に接続したい。しかし、「私」から一気に「公」にダイレクトアクセスするのも実はハードルが高いように思う。むしろ、今のインターネットの有様はそれをやろうとしたことに原因があったのではないかとすら思う。

「私」を「公」にダイレクトにつなげるのがインターネットの魅力ではあるのだが、そこに変換が入り込まないと、単に「公」に「私」を出現させるだけである。それはもはや「公」でもなんでもない。単なる「私」の団体だ。とは言え、公共論を語り始めると長くなるのでここまでにしておこう。

とりあえず、図式化したことで見通しみたいなものがかなりついた。「知的生産の技術」はそれはそれで面白いのだが、その「現代版」を考えるとなると、単にツールをデジタルやクラウドに置き換えただけでは済まないだろう。技術のコアにある「情報を扱う技術」に注目し、それが関与する対象全体について改めて考え直す必要があるように思う。

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