断片からの創造

「私」のブログについての断章

このブログを毎日お読みになっている方ならお気づきだろうが(ありがとうございます)、このブログには定型の文体というものがない。

敬体のときもあれば、常体のときもある。日曜日の記事以外は、テンプレート的文言もないし、そもそもテーマが一貫していない。ノウハウ寄りの話もあれば、ツール寄りの話もあり、哲学や思想かぶれの記事や、何を言ってるんだこいつ、という断片的記事も多い。

それでもそれらの記事はR-styleの記事だ。どれだけバラバラであっても、やっぱりそれらはこのブログの記事なのだ。

いやおうなしに私の手形がついている。私のヴォイスが宿っている。だって、私が書いているから。私が、ある指向性・方向性を持って書いているから。

個性を出そうと思っているわけではないし、個性的にあろうと思っているわけでもない。でも、やっぱりR-styleはR-styleだし、それ以外の何者でもない。

「分人」という考え方がある。自己を強力な単一現象として見るのではなく、接触する対象との相互作用として立ち上がる一種のインスタンス連合として捉える考え方だ。

そこまで極端でなくても、「自分」というのは、固定的なものではない。複数のパラメータを与えたら一意に定まる現象ではなく、どことなく揺れている。ジョハリの窓を構成するすべての自己が、それぞれに揺らいでいる。

それでもなお、そこにはアイデンティファイできる何かがある。揺れ方には特徴があり、変化には限界がある。

私は固定的なものでもなければ、かといって無限の広がりを持つものでもない。そこには下限があり、上限がある。そのテリトリーの総体が(あるいはシンボルが)私なわけだ。

このブログは、私のブログだ。

しかし、「私」という現象は、実際ややこしい。This is a penといって明瞭に指し示せるものではない。

もし明確に指し示したければ、「私」を矮小化するしかない。あるいは、動画のスナップショットを撮るしかない。

でも、本当に重要なのはそこではない。

意識して固めるのでも、意識して散らばらせるのでも、やっぱりそこには意識がある。「固めること」や「散らばらせること」の具体に何かがあるのではない。それらを志向するその意識にこそ何かが宿っているのである。フォーマットはその演算結果でしかない。もう答えは出ているのだ。

「どうしたらいいのかな?」と悩むことは多い。言うまでもなく、そうして悩むこと自体が一つの個の発現である。ある人は何かが気になり、別の人は別の何かが気になる。特別なことではない。

それでもなお、個というのを際立たせたければ、単なる瞬間的かつ断片的な反応以上の何かを求めるなら、それはもう「考える」しかない。それこそが、牢獄から脱出する唯一の鍵である。

違いはどこにでもある。差異は、思考の中にしか生まれない。

検討と決断の累積の先に、自己組織的に立ち上がるものがある。結果として立ち現れるものがある。

もしそれを発現させたいなら、時間と思考が必要だ。

だから、「R-styleってどんなブログなんですか?」と尋ねられたら、「私のブログです」としか答えられない。

スナップショットごとに名前をつけることは可能だろう。概要を記入することは可能だろう。でもそれは、刹那の印象でしかない。私の心的イメージにはその平面的説明ではまったくたどり着けない。

幸いなことに、「私」という現象に正解がないように、「私のブログ」にも正解がない。いつ、なにを、どのように、どんな頻度で書いても「構わない」。つまりそこには検討と決断が入り込む余地がある、ということだ。

決める、決めない、決める、決めない、決める、決めない。

その累積として主体が立ち上がる。「私」が決めるのではない。決めているその主体が「私」となるのだ。

「別になんだって構わない」

これは解放の言葉であり、非常な課題を迫る言葉でもある。無限の空間は、人間の意識には広すぎる。

しかし、どうしたって有限化は働くのだ。私には下限と上限があるのだから。だからあまり心配しなくていい。ただ在るように在ればいいだけだ。それは極めてシンプルで、ある意味で実行が難しいことではあろう。

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