思考の階層性についての話をしよう。
正確に言えば、思考における階層性の不在についてだ。
思いつき方
私たちは日常的に何かを思いつき、何かを考える。
そのときの、発露はどのような感じだろうか。
「私の仕事の>繰り返しプロジェクトである>シゴタノ!の>文章書き作業に使える>アイデア>メモの処理方法」
と思いつくだろうか。もしこのようにアイデアを思いつく人がいるなら、その人にとって階層的情報構造は最適だろう。
残念ながら私の頭はそうなっていない。擬似的にスケッチすれば、
「メモの処理方法 #シゴタノ」
という感じで思い浮かぶ。「メモの処理の仕方は取り上げる価値のあるテーマだな」という思いと、「それはシゴタノ!の原稿で使えそうだな」という思いがほぼ同時に浮かび上がる。たぶん前者がミリ秒単位(もっと短いか)に先に思いついているはずだが、私の意識はそれを近くできない。だいたい同時に発火しているように感じる。
では、台所でインスタントコーヒーの粉がなくなりかけていることに気がついたときはどうだろうか。
「私の家庭の>台所の>常備品の>嗜好品の>コーヒーを買わなければ」
と思いつくだろうか。あるいは単に「コーヒー買わないと!」と思いつくだろうか。
たぶん後者だろう。
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自分の頭の中の動きを観察していると、そこに思考の階層などまったく存在しないことがわかる。むろん、階層について考えられないということではない。私は目次案をよく考えるが、それはまさに階層である。生物の種目について考えるときも、きっと階層構造が顔を出すだろう。
私たちの思考は、階層を持つことができる。
しかし、意識は別段階層的に存在はしない。むしろ、「意識」しないと階層は出てこない。
※話がややこしなるので、無意識みたいな話は横におき、意識される意識についてに限定する。
意識というタイムラインは、基本的にはフラットなのだ。
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昨日私は、「シゴタノ、今週何書こうか」と考えていて、さらに「textLineの実装はどうしようか」とも考えていた。どちらも、意識平面では同じである。どちらの方が階層的に深い、ということはない。
しかし、それらの情報を書き留め、整理しようとすると途端に階層構造が顔を覗かせる。不思議なものだ。
いや、実は不思議でも何でもないのかもしれない。
そのように整理すれば、ある種の秩序が生まれる。情報を圧縮でき(リゾームをツリーに変換するから)、チャンクによって認知資源の浪費も減らせる。それがつまり、整理ということの一つの意義である。
どれだけ正確だからといって、1/1の地図は作らない。それは地図ではない(その役割を果たさない)。多少歪みが発生しようが、細部が省かれようが、サイズが小さくなること自体には意味がある。
それはつまり、意識の流れや在り方をそのまま保存し、再現しても、結局それは意識なわけで、「整理」の意味は為していないことも意味する。
これはたいへん重要なことだ。意識の在り方と整理によって生まれる情報構造の形は、完全には対応しない。完全に対応させてしまえば、一つの混乱から別の混乱に移動するだけになってしまう(まったく混乱していないなら整理の必要はないはずだ)。
だから、変換し、縮小し、切り刻み、細部を省く。その仕方によって、できあがる地図は違うし、役立て方も違ってくるだろう。
どちらにせよ、完璧な整理など存在しない。整理は常に多少の不足を、多少の不具合を、多少の物足りなさを抱えているものである。
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