知的生産の現場

日記とScrapboxと断片と

昔は、ほぼ日手帳を持ち歩きいろいろ書いていた。最初はオリジナルを使い、その後カズンとなった。

手帳は楽しい。書き込むのも楽しいが、読み返すのも楽しい。

あの感覚の再現をずっと求めていた。デジタルツールでも体験したいと願っていた。でも、なかなかそれは叶わなかった。

あらゆるメモツールを使い、日々の記録を残すようにしていた。でも、手帳を使っていたときの感覚は得られなかった。

きっと、紙に書くということが大切なんだな、と納得していた。ごまかしだったのかもしれないし、脳がこれ以上認知資源を使いたがらなかったのかもしれない。ともかく、それ以上は考えないようにしていた。

でもあるとき、ふと気がついた。入力時の連続性が問題ではないのか、と。たいていの場合、デジタルツールで新しく入力するときには、他の要素は表示されない。もっと言えば、過去に入力した要素は表示されない。しかし、手帳は違う。新規書き込み時には、前ページ等の情報が「目に入る」。この点が関係しているのではないか。

たしかにそれは差異ではあろう。しかしそれは、「読み返す」という行為をトリガーするものであって、読み返しの楽しさには直接関係しないはずである。

では、いったい何なんだろうか。その答えがあるとき降ってきた。Scrapboxを使い、探究し、その思想に触れていたことが大きかっただろう。あるいは、バレットジャーナルも関わっているかもしれない。

つまりは、量なのだ。記入量。

ほぼ日手帳オリジナルは、一日一ページという太っ腹なメモ欄があるが、それでも一日の行動を、思想を、考えを、着想を、感想を書き記すには十分ではない。

だからこそ、カズンへと移行した。カズンはさらにたっぷり書ける。私は、行動に関するログと、ノートスペースを分けて、ガリガリと書いていった。

それでも、だ。その記述は一ページに収まることになる。書ききれずに、次の日に浸食してしまったことも一度や二度ではないが、それでもだいたいはそのページに収まる。

その際、記述は簡易に、端的にならざるを得ない。このことが大きいのだ。

一方デジタルメモはどうか。キーボードで入力できるし、入力量には際限がない。スペースがなくなってきたから小さい字で書く、というような涙ぐましい努力も必要ない。だから、どうしてもダラダラ書いてしまう。思う存分、適当に書き散らしてしまう。

入力しているときは、キーボードの方が心地よい。では、読み返す段ではどうだろうか。

そう。明らかに読み返すときには、限定された記述の方がいい。だって、その「読み返す」は数日分、あるいはもっと多くの日の記述に目を通すことになる。それらすべてがダラダラ書かれていたらどうだろうか。

一つひとつの差異は小さいものかもしれない。2分ほど余計にかかる、というものかもしれない。しかしそれが30日分も連続すれば1時間になってしまう。これは負荷であろう。

そもそもダラダラ書かれた文章は読みづらいのだ。そんなことは、文筆業である私がもっとも先に気がつくべきだった。なにせ、文筆業の仕事の大半は、文章を短くすることなのだ。もう少し言えば、短く整えることだ。そのようにして、読みやすさを獲得する。

だらだら書かれた「日記」は、書くときには楽しいが、それは読み返しに最適なフォーマットではない。

たまたまページという制約を持つ手帳においては、その制約がむしろ読み返しに最適なフォーマットを醸成していた。書ける量が少ないから端的に書かざるを得ず、端的に書かれているがゆえにサラサラと読み返すことができる。

実際、自分のEvernoteの日記を読み返してみても、もちろん読んで意味は通るし、内容自体に興味がないわけではないが、「読みやすい」とは決して言えない。そりゃそうだろう、と思う。なにせ、読みやすさを意識して文章を整えてはいないからだ。

原因がわかれば、対処のしようはある。読み返しやすい形で日記を綴ればいいのだ。

書くときに気をつけるのか、書いた後で整えるのかは選べるだろう。手書きの日記と違い、デジタルなら後からの編集は容易である。とりあえず乱雑に書いておいて、それをまとめたり、あるいは見出しをつけてもいい。箇条書きを支援するツールで書いてみてもいい。

方法はいろいろある。しかし、要点は一つだ。今の自分が気持ちよく書いたからといって、未来の自分がそれを気持ちよく読み返すとは限らない。

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