メモの発生と固定化の形式について

ここで、実際のメモを眺めてみよう。

以下は、私が起床後一時間で作成したメモである。

https://gyazo.com/04061e2f685f6315020255b497ef5725

全部で10個。単純計算をすれば8時間過ごせばメモは80個になる。とは言え、さすがにそれは盛りすぎだろうから──脳が疲れてくると思いつくことは減るので経過時間と共にメモ生成率は下がる──せいぜい50個程度としておこう。それでも十分に多い。

また、中身は雑多だ。メモの意味は私にしかわからないだろうが、それでも統一感がないことは伝わるだろう。「どう扱うのか?」のようなイシューがあり、思いついたフレーズがあり、タスクになりそうな書き込みがあり、ショートショートのタイトルがある。

ついでに、連鎖もある。「ブログリファクタリング」を書いた後に「メモ管理はリファクタリング」とある。私はこの二つに呼応関係を見て取ったわけだが、しかしそれは一つ飛んで記載されている。思いつきは離散的なのである。むしろ離散的であるからこそ、発想が生まれる。

こうしたものを、「処理」していかなければならない。いや、それは処理ではないのだ。むしろリファクタリングなのだ、というのが先ほどの思いつきの中身である。どういうことかは、また後の回で語られるだろう。

一つのライン

さて、私は日常的に上記のようなメモをとっている。というか若かりし20代前半から、こうしてメモをとり続けてきた。使うツールは変われど、形式はまったく同じだ。思いついたことを、ずらずらと一つのラインに書き並べていく。その際に細かいことはいっさい気にしない。配慮しない。遠慮しない。

「仕事ノート」と「ネタ帳」を分けて、それぞれに思いついたことを書き分ける、などということはしたことがない。メモはメモであり、それは単一の、単層の、一つの原初なのである。なぜならそれは意識の転写なのだから。

「仕事ノート」や「ネタ帳」を作るにせよ、そこには転記という形で項目が追加される。それがメモの処理ということであり、つまりはフィファクタリングということである。

ただし、誤解があってはいけないので補足しておこう。そうしたメモは、別に一つのツールに限られるものではない。二つのメモ帳があっても別に構わない。それぞれのメモ帳で、似た形式で記録をつけているのなら──手間は生じるが──問題は生じない。ここでツール原理主義が顔を出すと、はまってしまう。

ポイントは概念として一つのラインを持つかどうかだ。普段使っているノートが手近にないならば、紙の切れ端にでも書き込めばいい。場所は散らばってしまうが、それでも記録は残る。そして、もともと記録一つひとつは断片的なものであるのだから、別に散らばること自体は構わない。むしろそれは本来的な性質であるとも言える。

もちろん、そのことで不都合は生じるだろう。だから、理念として一つのツールに書き続けていくことが推奨されるのは理解できる。が、それしか言わないのは、あまりにも抽象性に欠けた議論ではないか。

必要なのは、実体としての一つのツールではない。概念としての一つのラインである。この考え方が背景にないと、ツール運用が「無茶な話」になってしまうだろう。

I can’t stop flowing thought

こうしたメモの最大の特徴は、思考を(意識の流れを)止めないことである。

まず、ツールを選ばない。ツールを選ぶことに意識を使わない。ここで反論が飛んでくるだろう。「いつも同じノートを持ち歩いて、そこに書きつけるんでしょ。ツール選んでるじゃん」。これはむしろ話が逆なのである。書く場所を選ばないために、同じノートを持ち歩いているのだ。だから、そのノートが手元がなければ別の場所に書くこともやぶさかではない。この議論の混乱はツール原理主義では解消できない。「あのノートがないから、書かないでおこう」などという本末転倒な結果を引き起こす。

もう一度書くが、同じツール上に書いた方が処理(≒リファクタリング)の上で都合がよいことは間違いないし、理念としてはそうした方がよいだろう。が、それは、「思いつきを断片的に書き留める」ことが常態化した後の話である。言い換えれば、「まず書く」が確立された後の、さらなる効率化への話なのだ。

必要なのは、とりあえず書くことである。話はそれからだ。

次に、所属先を選んでいない。これはツールを選ばないことにも似ている。「これはネタだから、ネタ帳に書き込もう。ええっと、ネタ帳どこだったかな」などいうことはしないし、「えっと、これは何かな。タスクっぽいしタスクリストに書いておこう」ということもしない。判断は後回しでいい。まずは書き留めることが、思考を止めないコツである。

もちろん、何の判断も必要としないほど明確にその情報を書き留める先がわかっているなら、そこに直接書き込んでもいいだろう(ツールの起動に時間がかかる場合は除く)。ここで問題にしているのは、メモする際に「これはなんだろうか?」といちいち考えないことである。それは書いた後で考えればいい。

最後に、小さな塊で書き留めている。最近気がついたのだが、これは自明のことではないらしい。場合によっては、訓練しないと(≒一定の習熟を経ないと)できないこともあるようだ。当人の世界認識の粒度が大きいと、書き込まれる単位も大きくなる。たとえば習熟者ならA、B、Cと三つにわけてメモするようなことが、そうした人では{A,B,C}と一つの大きなメモとして作成される。

別段そのこと自身に厄災が潜んでいるわけではないが、いくつか問題は発生する。

第一に、そういう粒度の大きいメモを取るのは認知資源を消耗する。特に普段から断片的に捉える癖がないと、{A,B,C}的なものがどんどん膨らんでいく可能性があるし、さらに言えば{A,B,{C,D,F}}みたいなややこしいことになってしまう。で、そうしたややこしいことをそのまま記述するのは面倒なので、まあいいか、ということになりがちだ。

第二に、{A,B,C}と書かれたものを処理するのも面倒である。それらがすべて均一であり、同一の処理であれば、forEachすればいいが、最初に見たように、思いつくものは雑多なのである。わかりやすく表記を改めれば{思いつき、タスク、アイデア}みたいなことだってありうる。これは処理が困難だろう。

よって、書き留めるものはできるだけ小さな断片が望ましい。その方が、思考を止めずに記録できるし、その後の処理もやりやすい。

さいごに

断片としてすばやく書き留める。それが一つのスタートだ。その継続が一つのラインを形成していく。

となると、次は処理である。それは次回に譲ろう。

ちなみに、この記事の元になったのは、次のScrapboxページである。

思いつきすぎる – 倉下忠憲のメモ

「ああ、これってあれの話につながるな」みたいなことがリンクで簡単に繋げられるので実に楽である。センス(意識)志向だ。