メモのフォーマット

─すべては断片である。─

メモ

大文字の「メモ」は、書き留められたものの総称である。よって、走り書きメモも「メモ」であり、こうして書かれる一つひとつのブログ記事も「メモ」である。なんだったら、私が書いた本たちも「メモ」と言っていい。

もちろん、ぜんぜん違うように感じられるだろう。走り書きのメモは使用が終われば捨てても構わないが、本は残り続ける。が、視点をぐんと引いて人類史まで引っ張り上げれば、走り書きメモも本もたいした違いはない。私が死ねば(私にとっての)意味は消滅する。すべては視点の違いであり、そこから実用上の違いが生まれる。逆に言えば、「私が書き留めたもの」という点では共通である。

そして、それらを指す言葉は実はない。よって本連載はそれを「メモ」と呼ぶところから始めた。それらがまったく違うものであるというスタート地点ではなく、根本では共通していて、実用上の要請によって分化していったものというスタート地点を選んだわけだ。こうすることで、曖昧なものを許容できる。既存の分類のどこにも当てはまらなくても、とりあえずそれを「メモ」と呼び、操作できる。無理にカテゴライズする必要はない。

とりあえず、それが出発点である。

メモのフォーマット

「メモ」にはどんな形式があるだろうか。

  • リスト
  • ツリー
  • マップ
  • リゾーム

とりあえず、この四つがあるだろう。

リスト

リストは、要素群を一列に並べたものである。おそらく人類の発明でもかなり強力な部類に入る道具の一つだろう。

リストのプロトタイプに求められる要件はそれほど多くない。むしろ、「要素群を一列に並べたもの」で成立する。しかし、実装の段階ではいくつかのパラメータが出てくる。たとえば、純度である。

・ジャガイモ
・たまねぎ
・ニンジン

上記のリストは純度が高い。

・ジャガイモ
・たまねぎ
・マイケルジャクソンのアルバム

上記のリストは、若干純度が低い。「異なるもの」が混じっているからだ。

・ジャガイモ
・たまねぎ
・倉下さんのメルマガを読む

上記のリストは、さらに純度が低くなった。最初の二つはまだ「買い物」というコンテキストでまとまっていたが、上のリストは行動のコンテキストがずれている。

が、これでもリストではある。ただ「買い物リスト」ではなくなっただけだ。つまり、そこに含有される要素によって、そのリストが何リストであるのかは変わってくるし、ある種のリストを「〜〜リスト」として機能させたいなら、そこに含まれる要素を〜〜というコンテキストで統一する必要がある。でないと、認知上の混乱を引き起こす。

また、リストの要素を箇条書きで記せば「箇条書きリスト」になる。が、そうでない書き方であってもリストは成立する。単に箇条書きリストではなくなるだけだ。

ともかく、リストは要素群を一列に並べたものである。もう少し言えば、共有するコンテキストによって集められた要素群を一列に並べたものである。

ツリー

ツリーは、要素を階層構造に配置したものである。おそらく、科学の発展はこの情報構造体から生まれたのだろう。

身近な例では、アウトラインがそれだろう。また、プロトタイプ的に考えれば、いわゆるノートブックもツリー型である。ページという単位があり、その中に情報が書き込まれる。そこには異なる情報の次元がある。

ノートブックは一見リニアに情報が並んでいるようだが、実際はページは横に進み、本文は下に進む。それが示すことは、ノートブックは情報をブロック単位で管理しているということである。記述をまとめるブロック(ページ)があり、それをノートブック全体がさらにまとめている。(見えにくいかもしれないが)情報の次元は二つある。

そして、二つ許容されるなら、三つでも、四つでも許容される。ツリーの階層は(理念的には)無限に拡大できる。それこそ人間の認知が追いつかないくらいまで、深く、拡張する。大きく離れた枝同士は、その結びつきが弱まってしまう……というのが、学際的なものの要求が高まる要因でもあろう。

ともかく、n次のツリーは、nが一定以上になると人間にはその構造が瞬時には把握できなくなる。ツリーは便利だが、いつまでも便利とは限らない。

マップ

マップは、要素を平面に配置したものである。世界地図が人類の文化をどれほど変えたのかは今さら論じるまでもないだろうし、そもそも「地図」という発明が、私たちの認知に影響を与えてしまった可能性すら否定できない(というか、ほぼ確実ではないかと思う)。

マップは、要素を二軸に配置したものだが、ツリーの例から考えても、実際はn軸(n>1)に配置したものと考えられるだろう。とは言え、人間は4次元を認識できないので、せいぜい三字軸までが精一杯だろう。

マップのポイントは、並べることではなく、眺めることである。

地図が示すことを考えて見よう。今私がいる場所(現在地点)から目的の場所までを比較する。A市からB市までの距離を測る。つまり、二つ以上の要素の比較が行われている。個々の要素に注目するのではなく、複数の要素の関係性に注目したいとき、マップという形式は選択される。

もし、スーパーで買いたいものをリストではなく、スーパーの店内図上にマッピングすればどうなるだろうか。おそらく「効率的なルートの模索」が始められるだろう。これはリスト単体では不可能なアクションである。

また、認知上の概念操作を仮想の意味平面空間上の操作で代替するという役割も行える。これも要素の関係性を表現できる形式だからだろう。ついでに言えば、ツリーでもそうだが、マップにも「空白」が存在する。これは(基本的には)リストに存在しない要素である。人類はその「空白」を求めて文明を発展させてきた、と言えるのかもしれない。

リゾーム

リゾームは、要素をネットワーク上に配置したものである。漠然とした予想だが、コンピュータ、そしてインターネットの出現によって人類文化上に爆発的に増えた形式であろう。ハイパーリンクが、それを可能にした。

まず私はここで宣言しておきたい。これまでの個人の情報整理では、上記の三要素、つまりリスト、ツリー、マップはたびたび話題に挙げられてきた。が、これからはそこにこのリゾームも加えていくべきである。

それは何も、このリゾームが特別に優れているからというわけではない。それぞれの形式にはそれぞれの良さがある。逆に言えば、このリゾームにも独自の長所があり、それは他の形式では代替できないものである。そして、知識や情報を「使う」という点では、この形式が飛び抜けた特性を持つ。現代が情報化社会であり、我々がその社会の市民であるならば、「使う」ための構造についても把握しておく必要があるだろう。

さいごに

まずはざっと並べてみた。次回はもっと具体的なレベルでのツールの話をしてみたい。

さて、ここで問題である。一行だけ書き留められたメモは、上記のどれに位置するだろうか。

実は、どれにでも位置できる。だからややこしいのである。