6-エッセイ

「らしさ」バブル

昨日の記事をアップしようとしたとき、ひどい抵抗感が湧き上がってきた。

何か間違っていることをしている気分に襲われたのだ。無理に言語化すれば、「こういう記事はR-styleらしくない」。おそらくはそんなところだろう。

たしかに最近の記事の傾向と、昨日の記事の方向はかなり異なる。落差があると言ってもいい。そこに何かしらを感じ取ってもおかしくはない。

しかし、である。

はるか昔は似たような記事をたくさんアップしていたのだ。それを今になって「R-styleらしくない」とはどういうことだろうか。直近の記憶だけが鮮明化され、それが勝手な印象を形成しているにすぎない。

もちろん、これを進化と呼ぶことはできるだろう。昔は書いていたけれども、今は書かなくなりました、というやつだ。しかし、私はそんな決意をした覚えは一度もない。「これからは○○のような記事は書かず、××のような記事だけにする」と自らの宣言したわけではない。だとしたら、単なる変化を、自己解釈で良い風に捉えているだけではないか、という疑問が出てくる。そして、おそらくはそうなのだろう。

よく大企業が変化できない、と言うが、それはそうだろうなと思う。一個人のブログですら、直近の記憶から勝手に「らしさ」を想定し、それまでの路線をなぞろうとしてしまう。このブログは常に実験であったはずだ。そのことを忘れて、単に自分が手慣れているだけのものを「らしさ」とカテゴライズすることで、新しさを試すことを拒絶している。その方が、脳的に楽だからだろう。

あらゆることを「これは自分らしさだから」と括っておけば、主体は悩むことも、変化を追い求める必要もなくなる。楽チンだ。フィルターバブルに言葉を借りて、「らしさ」バブルとでも呼んでおこうか。

別にぬるま湯につかることが、道徳的によくないという話をしたいのではない。このブログは「実験」の心持ちで始めたはずなのに、後からの印象で作られた「らしさ」によって、原点がまるっと忘却されていることに恐怖を感じているのだ。

人はいつだって、そのときの自分の都合の良いように現実を解釈する。因果関係の抽出が我々の脳の得意分野であり、それが正当化を支援する。因果をいじれば、あらゆることが正当になりうる。残された記録だけが、それに異議をとなえる。

どちらにせよ、心に湧き上がってくる「ざわざわ」は私に考える材料を提供してくれる。恐怖や怒りは、対象そのものではなく、そこに向ける私の眼差しについて何かを教えてくれる。

そう。こんな役に立たないことを昔はずっと書いていたのだ。まあ、今でもそうなのかもしれないが。

▼こんな一冊も:

真ん中の歩き方 R-style Selection