0-知的生産の技術

知る生活

「知的生産」という言葉には、ほとんど何の違和感も覚えないのですが、「知的生活」という言葉を見ると、ふむ、と考え込んでしまいます。

はたして、自分がやりたいのは「知的生活」なのだろうか、と。

たぶん、私は知的な活動を求めています。頭を使うことが大好きです。だからこそ知的生産なるものに心を惹かれているわけです。しかし、そのようなものを生活全体まで敷衍したいのかと言われると、やっぱりふむと考え込んでしまいます。

おそらくは、「生活」という言葉が包括している対象が、私自身の感覚からすると大きすぎるのでしょう。

そして、そもそも「知的生活ってなんぞや?」という言葉の定義も気になります。


「知的生産」は、「物的生産」と「知的消費」に対する言葉として位置づけられるでしょう。物ではなく情報を生み出し、頭を使うことをその生み出すことに使う。そういう意味合いです。

であれば、「知的生活」とは何なのでしょうか。それに対峙する言葉は、たとえば「物的生活」なのでしょうか。たぶん、違いますね。

知的生活 (講談社学術文庫)

知的に生きること。インテリジェンスを目指すこと。おそらくは、そういうことなのだろうと、ハマトンの『知的生活』を読んでいても感じます。どうにもハマトンさんは、無駄なこと、下劣なこと、俗世のことを下に見ているんじゃないかな〜という気がプンプンとしていて(たぶん彼はパズドラなど絶対にやらないでしょう)、どうにもその辺で、私と知的生活という言葉(あるいは概念)との間に距離が空いているんではないかと思います。


では、私はどんな生活を目指しているのか。

それを、ゆっくり絞り出してみると、そして、そこに知的活動に対する興味を加味すると、おそらくは「知る生活」だと言えるでしょう。

そうなのです。知りたいのです。ヴァイオレット・エヴァーガーデンのように知りたいのです。気になるのです。千反田えるのように気になるのです。

対象はなんでも構いません。そう、なんでも構わないのです。知的好奇心を満たしたい。そうした愉悦に動かされています。もっと言うと、基本的に享楽的な人生を送っており、その享楽の中に「知的好奇心を満たす」が含まれていて、そこに知的活動が加わっているだけです。

高尚な人間になりたいわけでも、立派な教養を身につけたいわけでもありません。単に、知りたいのです。

人生を通して、ノンアカデミックな人間ですし、そろそろ40も近いというのに大した教養を持ち合わせてもいません。ちょっとばかり蘊蓄が多いだけで、それすらも愉悦を満たしてきた結果に過ぎません。

さすがにこれを「知的生活」と同一視することはできませんし、「知的生活2.0」と新しい衣を纏わせることもできません。「知る生活」。これくらいで充分でしょう。