0-知的生産の技術

テンプレートの差異と時間の分節化

5月30日の朝、さて去年は何をしていたのだろうと、ふと気になった。

手帳ユーザーなら棚から去年の手帳を取り出してパラパラ見返すところだが、目下私のログはデジタルデータに集中している。

もちろんデジタルデータだからこそすぐに取り出せるのだが、案外腰は重いものである。それがデジタルデータの性質によるのか、Evernoteの何かに起因するのかはわからない。それでも、思い切ってワーキング用のノートブックからログ用のノートブックに移動してみる。節目となる日には、それくらいのパワーは湧いてくるものだ。

もちろん、デジタルデータなので、そこからはあっと言う間である。2018年のここまでの記録から始まり、ずずーっとスクロールしていけば、去年のデイリーノートはすぐに見つかる。

この頃は、まだ写真を添付する習慣がなかったので実に無味乾燥である。デジタルデータにはそういうところがある。テキストだけだと、こちらに与えてくる印象が極めて少ない。

それでも、と、デイリーページを開く。そこで面白い発見があった。テンプレートが違うのである。

まず、表組みが違う。これだけでずいぶん印象が変わってくる。また、去年のこの時点はたしか7wrinerはできていなかったと思うので、メモ書きがEvernoteに集中し、それを把握するために一日分のノートリンクが添付されている。言い換えれば、その日作成したノートの一覧がデイリーノートには集まっている。一年経ってノートを開けてみてわかるが、これはGoodな対処であった。行動と作成したノートが一覧できれば、その日のことはだいたい把握できる。なにしろ人生というのは思考と行動でできているのだから。

リストにあったノートにも興味深いものはある。「ビジネスがゲームなら、一番重要なのはそのルールである。」というのはまさにそうだなと一年経っても思うし、「他人事、自分事、私たちごと」という表現を使おうと思った本(僕らの生存戦略)はまだ完成していない。「ものすごい数の試行錯誤をし続けられるなら、」というタイトルのノートは、実に中身が気になるので開いてみると、「人を効率的に誘導する方法はきっと発見される。」と書かれていた。おそらく、私たちはネットにどっぷりつかることで他人に誘導されやすくなっている状況を危惧しているのだろう。「かーそる」の第二号を進めていたことも思い出せた。

やはり、昔の記録は楽しい。差異に満ち溢れている。私の大好きな「やじるし」が盛りだくさんだ。これはいわゆる日記的な日記ではないかもしれないが、それでも日記的な働きは持っている。

しかし、大切なのはそこではない。テンプレートが違う、という点こそが重要である。

手帳の場合、一年が経つと、物が変わる。その変化が、私たちに「別物」という感覚を呼び起こす。つまり「今年」と「一年前」が違うもののように感じられる。しかし、連続したデジタルデータではその差異はきわめて感じにくい。時間の分節化が生じないのである。むろんここで哲学的に、時間の区切りなどというものは意識の産物であり、本来は存在しないものである、という反論は可能だろう。しかし、まさに「意識の産物」であるからこそ、意識にとっては大切なのだ。いったいなぜ昔の人々は儀式を大切にしたのか。時間を分節化するためである。のっぺりとしたデジタルデータは、その感覚を希薄化させてしまう。

しかし、今回一つの発見があった。今年使っているデイリーノートのテンプレートと去年使っているノートのテンプレートが違うと、わずかながら「去年と今年は別物」という感覚が生じる。それは物が与えてくる印象よりは弱いが、それでもゼロではない。やはり情報とは差異なのである。そして、受容した差異の総体が、おそらく人生という経験になる。何も差異が感じられなければ、そこには何もない。少なくとも意識にとってはそうである。

そんなことを考えながら、デイリーノートのテンプレートは一年ごとにごろっと変えていこう、と小さい決意をした。これはたぶん、10年とかそういう単位で効いてくる話になるはずである。