3-叛逆の仕事術

眠りすらコントロールできない自己

あるとき、うまく眠れないようになった。まったくの不眠というわけでもないが、なかなか寝つけない。明け方まで起きててしまう。

自律神経がまいってしまうと、こっちまでまいってくる。まあ、両方とも自分なわけだから、あんまり気にしてはいけないだろう。なるようになる。Let it be。

それはともかくとして、少しふり返ってみると、それまでは眠ろうと思って寝ていたような気がしていたのだが、別段そういうわけでもなかったのだろう。横になったら体が自然に眠りに向かう。単にそれだけのことだったのだ。私という意識がやっていたことは、眠りの体勢に向かおうとすることを阻止しない。それくらいだったのかもしれない。

そもそも心臓の鼓動も「私」の管理下にはないし、発想も、指先の細かい動作だって、意識ではどうしようもない。意識にできるのは注意の制御だけである。

それだってなかなかたいしたものではあるのだが、私という生命体の活動全般からみれば影響は限定的であろう。少なくとも、占める割合はずいぶんと小さい。なにせ、意識では眠ることすら叶わないのだ。

そんな風に考えてみると、一部の自己啓発系でよく言われる「自分」を第一に置く考え方は、あまりにも脆い気がする。自意識なんてたいしたことはないし、できることも限定的だ。そのような存在に、自己のすべてを代表させるのはあまりにも脆い気がする。アニメ作品では、子どもの方がロボットをうまく操縦できる描写が多いが、人間という生命体はどうだろうか。矮小な自意識が、自己を代表しても問題ないのだろうか。

自意識は、自分を構成する一部分でしかない。それは、この世界に属する人間が、世界の中では一部分でしかないのと同様だ。人間至上主義はあまりにも幼稚ではあるが、では自意識至上主義はどうだろうか。

もちろんこれは、自意識が大切ではない、という話ではない。理性的主体としての自意識は他の生命体との差異を生み出す根源的な要素かもしれない。が、それは完璧なものとは程遠い。完全な状態にはまったく届かない。そのような存在を、支配者とし、すべてをコントロール下に置こうとするのは、あまりにも危ういのではないだろうか。

人間はおろかしく、ひ弱で、矛盾していて、ときに大いに間違う。歴史からも、経験からも学ばないことは多い。しかし、自意識はその事実を見過ごす。自分が認識の出発点であり、それが万物を計る物差しであるならば、そこにはあるのは完璧な世界である。しかし、それは理想に過ぎない。現実は、ほんとうにどうしようもない姿形をしている。世界は誰かの理想のために設計されているわけではないのだから、それは仕方がないだろう。

そのとき、間違っているのはどちらだろうか。自分の認識だろうか。それとも、世界の在り様だろうか。

古来から、人間社会は傲慢さを抑え込む仕組みを持っていた。人間よりも上位概念を規定し、自らの欲求が世界を支配しないような仕組みが組み込まれてきた。しかし、そのことわりは変化しつつあるのかもしれない。そして、そのことが自意識至上主義と呼応しているのかもしれない。なにせ、「思った通りに眠りにつける」ことが正しき状態だと認識されるだろうから。そして、体から発せられるサインは、次々と沈黙させられていく。自意識の勝利。理性の闊歩。それが来るべき未来の姿としてイメージされている。

ほんとうに、ほんとうに、「思った通り」になることが良いことで、正しいことなのだろうか。それは決定的なことを見過ごすことにつながらないのだろうか。

私たちは、自らが「思う」ことすらも制御できない。周りに影響を受けてしまう。体調にも気温にも天気にも周囲の人々にも影響を受けてしまう。

完璧な制御下に置いているように見えて、完璧な制御下に置かれているだけかもしれない。あるいは、そこに違いなどないのかもしれない。

健康で文化的な生活を指向してある程度は制御に置きつつも、そうではない何かを受け入れるような「すきま」を持っておくこと。余白、マージン。

そうしたものがまったくないのは、案外脆さを引き起こすのかもしれない、ということはありうるだろうし、そうした想定を持っておくのは悪いことではないだろう。

なんにせよ、余白がないことが「理想の状態」だとするならば、生きることはひどく息苦しいものとなる。

自分という風船は、いっぱいに膨らまさない方がいい。少し余裕があるくらいがちょうどいい。そういう感じがしている。