問題に直面し、それを乗り越える。
そこにはたぶん、いろいろな方法があるのだと思います。
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まず、問題が存在することを認識しなければなりません。
問題なきところに、問題解決なし。
かのサングラスの人だって「当たらなければどうということはない」
という名言を残されていますが、ある事象を問題として認識しない限りは、
そこには問題は存在しないわけです。
逆に、問題だと思われていることを別の角度から解釈し直すことで、
「非問題化」させることもできるでしょう。
あるいは、何かの事象から問題を立ち上げるにしても、
「どのような問題として」立ち上げるのかによって、その後のアプローチは変わってくるはずです。
たとえば「時間がない」と「やることが多い」は、同じ事情の違った問題化であり、
前者はとにかく時間を作ろうとする方向に、
後者はやることを減らす方向に、
思考は向くでしょう。
問題を定義できれば、半分解決できたようなものだ、というのはこの文脈における話です。
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問題が定まったら、次は解決に向かいます。
これもまた多用なアプローチがあり、『問題解決大全』はその導き手として光り輝いていますが、
たとえば、「親に相談する」という項目はありません。当たり前ですよね。えっ、当たり前ですか。
「警察に相談する」「弁護士に相談する」「友人に相談する」「ネットの知人に相談する」
相談相手だって、いろいろいます。で、ほんの一言「困っているんですよ」と言うだけで、案外けろっと「ああ、それはね」と手が差し伸べられることもあります。
そうでないこともあります。
人生いろいろ、問題いろいろ。
一人で解決しようとする場合だって、手法はダイキリ、ではなくピンキリです。
頭の中でうんうん考えているのではなく、それを紙に(あるいはテキストエディタに)書き出してみることで、思考がくるっと変わる場合もあります。
変わらない場合もあります。
情報を集めていって、現状を分析してもよいでしょうし、いわゆる「発想」を行い、異世界から勇者を召喚するかのようにアイデアを求めてもよいでしょう。
この辺の話は、ほんとうもうドッサリな感じで『問題解決大全』に記載されています。
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でもって、問題を問題だと認識した上で、解決しないという選択、あるいは当面は解決しないという選択もありでしょう。
すべての問題を解決しようと思ったところで、資源は限られています。
人の手に掴めるものなど極小なのです。
他の誰かに任せたり、次の世代にバトンタッチしたり、ということも一つの問題に対するアプローチと言えます。
自分で解決するばかりが、問題が解決ではありません。
あるいは、「それは問題だよ」と提示しただけでも、そこには功績があるとすらいえます。
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こういう言い方をするとあれですが、日本の学校教育、特に試験をクリアすることに特化したタイプの教育にしか親しんでいないと、問題解決の引き出しが、「傾向と対策を知り、それについて勉強する」というアプローチしか身につかないのではないか、という危惧があります。
もちろんそんなものは愚かな危惧であり、実際に人々は多くの問題解決アプローチを身につけているのかもしれませんが、そうでないとしたら、結構たいへんです。
あるいは、学ぶは真似るなので、身の回りの人が多用な問題解決アプローチを持っていないと、なかなか身につかないものなのかもしれません。特に問題解決のアプローチは、他者から見えることが稀なので、学びの機会はもともと少ないと言えます。
だから一度、そうしたものをパターンとしてまとめておくと、よさそうな気がします。
もちろん、「パターンとしてまとめておくこと」もまた、問題解決のアプローチであることは言うまでもありません。