一見切れそうに見えるが、実際は切れない刀を意味する表現。切れ味の悪い刀に、鋼の焼き刀をつけたことに由来する。転じて、その場しのぎのために、一時的に知識などを覚えることを意味する語として用いられる。
問題はですね、「一見切れそうに見える」という点にあります。一見切れそうに思えるので、ついそれで戦ってしまいますし、一見切れそうに見えるので、相手も身構えてしまいます。無益な戦いの勃発です。メディアはメッセージである。
むしろ切れそうに見えなければ良かったんですけどね。あるいはそもそも刀ではないか。
■
一時的な知識の蓄えとは、『学びとは何か-〈探究人〉になるために』(今井むつみ)が言うところの、生きた知識ではない「ドネルケバブ」モデルのインプットということでしょう。
売り上げランキング: 23,065
自分の他の知識との整合性がないので矛盾が頻発しますし、検討を重ねていないので不備も多いものです。基本的には、威嚇以外の何の役にも立ちません。
でもって、現代は付け焼き刃はいくらでも手に入ります。だから妙な小競り合いが多発しているのかもしれません。
■
切れ味の悪い刀をいくら集めたところで、切れ味が鋭くなるわけではありません。そのような刀を手にするには、長い時間をかけて鍛刀していく必要があります。
それでも、です。
切れ味の悪い刀をもった集団に囲まれたら、いくら名刀を持っていても、さすがにフルボッコでしょう。1体100の構図は、白兵戦において戦術でどうこうなるものではありません。切れ味が悪かろうが、叩かれれば痛いのです。
■
付け焼き刃があちらこちらに散らばっている時代。
現代がそういう時代だとすれば、白刃取りを覚えたりとか、強力な鎧を身につけたりとか、そもそも囲まれないようにしたりとか、危なそうならさっさと逃げるとか、そういう立ち振る舞いも必要になってくるのでしょう。
刀自慢が、役に立たない場面は間違いなくあります。
■
自由にフラットにものが言える時代は、すばらしいものですが、トレードオフがなにもないわけではありません。
そういうことを真剣に考えていかなければならないのでしょう。