すっかりデジタル三昧な日々を送っているわけですが、ときどきふと、紙のノートに書き込みがしたくなります。
それも、チャチャッと書き出すラフスケッチではなく、じっくりゆっくり書き出す文字書きです。
「どこに書いたって一緒」
そんな意見もあるでしょう。私も3割くらいはそれに同感します。そこにあるテキストが同じならば、情報的価値は大差ない。そういうことは言えるでしょう。
しかし、次はどうでしょうか。
「どう書いたって一緒」
素直には頷きにくいものがあります。
メモを走り書くなら、ツールは何でも構いませんし、むしろ素早く書ける方がよいでしょう。ポケットに入れたメモ帳からiPhoneに、そして音声入力へ。最適化の道のりは止まることがありません。
しかし、それとは異なる言葉との、いや文字との付き合い方もあるのではないでしょうか。
手書きでゆっくり字を書く。下手くそは下手くそなりに、丁寧に書くようにする。最初はきっと焦れるような気持ちがするはずです。思考の奔流に言葉が追いつかない。そんなもどかしさが胸にこみ上げてくるはずです。
でも、文字を丁寧に書くことを続けていると、今後は思考の方がその速度に合うようになってきます。ゆっくり物が考えられるようになってくるのです。
おそらく冗談だと思われていることでしょう。そんなことあるもんかと笑われているかもしれません。
ですので一度やってみてください。細いペン、あるいは万年筆を使い、「思ったこと」を書き出してみる。できるだけゆっくりと。
多少のイライラ期間が過ぎれば、それが標準的に感じられるのではないでしょうか。もし感じられないなら、もちろんきっぱり止めて頂いて結構です。でも、思考の速度が変わるような感覚があったのなら、是非ともそれは引き出しに入れておいてください。そういう調律って、なかなか難しいものなのです。
普通の呼吸と深呼吸。
普通の思考と深思考。
そのスイッチを押すものは一体なんなのでしょうか。おそらく「意識」ではないでしょう。「儀式」が近いように思われます。