「考える」ための構造と「使う」ための構造

目下のプロジェクトが一息ついたので、いろいろ疎かになっていた他のプロジェクトも含めて、自分の手持ちの「気になること」を紙に書き出してみました。

こういう空間的な表現には、もちろん意味があって、「手前の方に書くか奥の方に書くか」「四角のサイズは小さいのか大きいのか」などによって、私の「心情」を表すことができます。何を重要と考えているのか、何を大ごとと捉えているのか。そういうことですね。

単純な箇条書きだとこれが見えてきません。でも、状況を「整理」するためには、それが見たいのです。

ただし、こうして書き出しても、まだ各々の項目は充分掘り下げられていません。そこで、別のノートを取りだして、そこで詰めていくことにしました。

まず、項目のリスト(index)を作り、次のページからそれぞれの項目について詳細を検討していきます。一応後から参照しやすいために、indexにはページナンバーも振っておきました。

まだこの掘り下げ作業は途中段階で、あと半分くらいは残っていますが、それでもようやく心の中で固まっていた油成分が砕け、意識という水が流れ始めたような感覚があります。

そして、そのとき、『アウトライン・プロセッシングLIFE』に書かれていたことが、急激に腑に落ちました。

 せっかく検討したカテゴリーを消してしまうのは、「考える」アウトラインと「使う」アウトラインは違うからです。

 実際の生活の中でDOを整理するときに、適切なカテゴリーを探すことが負担になることが経験的にわかっているからです。階層はできるだけ深くしない方が自由度が上がります。

私は紙とノートでやっていたことは、「考える」ことです。これからやることについて、プロジェクトについて「考える」行為です。

そして、そうして「考えた」結果をもとに、行動を起こしていくのが次のステップです。

しかし、別段その二つは綺麗に接続している必要はありません。別の言い方をすれば、同種の情報構造形式を取らなくてもよいのです。

手持ちのプロジェクトについて詳細を検討しようとすると、どうしても階層が深くなります。またグルーピングも生じます。それはもう間違いありません。分析という行為には、必ずそのような側面が含まれるからです。

しかし、その結果をそのまま「使う」構造に持ち込まなくても良いのです。極端なことを言えば、すべてのプロジェクトが均質化され、フラットに並んでいても、「実行」の段階では問題は生じません。むしろ、その形の方が進めやすいことすらありえます。

これまでの私は、上記のようにプロジェクトについて分析し、深掘りし、分類したら、そのままその構造をプロジェクト管理にも持ち込んでいました。だって、それがプロジェクトの「形」なんだから、そうするのが当然、と思っていました(そう思っていたことすら自覚していませんでした)。

でも、そうではないのです。少なくとも、それは自明な事柄ではありません。検討される余地がある事柄です。

「考える」段階で作り出した構造を、「使う」段階では用いなくてもよい。むしろ、その余韻を残して、フラットに並べ直すことが効果的ということもありえる。

これは大きな発見でした。「考える」ためから、「使うため」への移行、そしてそのための変換。

考えてみれば、本を書くときだって「考える」ときにつかった構造をそのまま目次案にするわけではありません。分析的思考によってかなり深くなったとしても、最終的には章立ての構想に直すことになりますし、また文章レベルではすべてがリニアに配置されることになります。変換を行っているわけです。

知的生産の技術では、メモを書き残すことを「今の自分」から「将来の自分」へ引き継ぎすることだと捉える向きがありますが、「考える自分」と「使う自分」を分けて捉えるのも、同様に有効なのかもしれません。

ともかくこれは、いろいろな領域において再検討してみたい事柄です。