断片からの創造

カード書きは知的生産活動か

梅棹忠夫は『知的生産の技術』の中で、以下のように〈知的生産〉を定義している。

ここで知的生産とよんでいるのは、人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合である、とかんがえていいであろう。この場合、情報というのはなんでもいい。知恵、思想、かんがえ、報道、叙述、そのほか、十分ひろく解釈しておいていい。

ここから梅棹は、まとめて以下のように述べる。

つまり、かんたんにいえば、知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ、くらいにかんがえておけばよいだろう。

何度となく読み、何度となく引用してきた文章だ。でも、昔と今とでは少し捉え方が変わっている。

前半部分はよい。”人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産にむけられているような場合”──これが知的生産(活動)であることは疑いようもない。しかし、後半はどうか。

“頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること”

私はこれを厳密に受け取りすぎていたのではないか。なにしろ梅棹はその後に「くらいにかんがえておけばよいだろう」と少しふんわりと定義を広げている。イメージとして、そういう方向性だよ、と言っているに過ぎない。

“頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること”が知的生産活動であることもまた疑いようはない。でも、このフレーズからイメージされるのは、書籍や論文、そしてこうしたブログ記事のような「まとまった文章」、言い換えればしっかりとしたドキュメントではないだろうか。そうしたドキュメントの生成が、知的生産であることは間違いないとしても、それだけに限定されるものなのだろうか。

梅棹はカードの書き方についてこう述べた。

カードは、他人がよんでもわかるように、しっかりと、完全な文章でかくのである。「発見の手帳」についてのべたときに、豆論文を執筆するといったのだが、その原則はカードについてもまったくおなじである。カードは、メモではない。

先ほどの引用と、この部分の引用が妙に呼応してくる。

“頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること”

“カードは、他人がよんでもわかるように、しっかりと、完全な文章でかくのである。”

未来の自分は他人だと想定するとき、カードにしっかりと豆論文を書くことは、”ひとにわかるかたちで提出すること”を意味する。もちろん、そこに書かれることは、頭をはたらかせて考えついた、なにかあたらしいことがらであろう。

つまり、豆論文の執筆自体が、一つの知的生産なのである。

私はこれまで、上記のようなカード書き(メモ書き)は、より大きな知的生産を支えるための補助的な行為だと考えていた。簡潔に言えば、メモ書きは知的生産行為そのものではないと考えていた。あくまでドキュメントを生成することが知的生産であり、メモを書いたりすることは、その土台というか足場作りなのだと考えていた。

でも、この考え方は誤っているのかもしれない。

むろん、走り書きのメモは──カードはメモではないと梅棹が言うように──、知的生産ではなくその補助だといえるだろう。しかし、それらを少し肉付けした2〜3行の書き出しとなれば、これはもう立派な豆論文であり、すなわち、そのものが知的生産だと言える。アウトプットを生成しているのだ。

つまり、カードを書くことは、大きなドキュメントを作成するための行為ではなく、それ自身が一つの独立した知的生産(活動)なのではないか、というのが今のところの私の考えである。

ここでカードとこざねの差異が生まれる。

こざね法と呼ばれるものは、あくまで一つのドキュメントの作成に向けた断片的情報の操作であり、全体像の構築法である。これは日常的に行われているから、実は直感的にわかりやすい。

しかし、カードはそうではない。カードを1枚1枚書くことそのものが、知的生産であり、言ってみればミニマムなドキュメントの作成なのだ。そして、それはこざねとは違うので、別段「ある一つのドキュメントの作成」に向けられているわけではない。むろん、そこから何かしらのドキュメントが作成されることはありうるにしても、それは大きな用途の中の一つの特殊な例にすぎない。

カードは、こざねではない。いや、カード法とこざね法が目指すところは異なっている。

しかし、カードのそのような用法は、実はあまり日常的なものではない。カードを書き、それをくり、新しく何かを考える、というような長い期間の活動を、身近な事例で適切に比喩することはできない。だからどうしても、理解がこざねの方にひっぱられてしまう。

でも、それは基本的には別のことなんだよ、というところから話を始めるべきなのかもしれない。

これまでデジタルツールを使った知的生産についてさんざん考えてきた。ある部分はきわめてうまくいくようになり、別のある部分は長らく課題として残り続けている。そして、その課題というのが、上記のような認識(理解)が欠落していたからではないか、という気がしている。

デジタル時代の情報カードは、付箋的なものではない。付箋的なものはあくまでこざね的用途に適したものだ。

では、それはどんなものであるべきなのか。その辺のヒントが、実はScrapboxにありそうなのである。

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